江戸幕府14代将軍の徳川家茂。将軍継嗣問題で井伊直弼に支持され、その後も将軍として21歳で亡くなるまで重責を果たした人物として知られてますが、その家族にはどのような人物がいたのでしょうか。

今回は、家茂の父親である徳川斉順や母親の実成院について解説します。
また、家茂には子供がいたのか?についても見ていきましょう!

徳川家茂の実の父親 徳川斉順はどんな人?

徳川家茂の実の父親は、徳川斉順(なりゆき)という人物です。

斉順は1801年、第11代将軍・徳川家斉の七男として誕生しました。
わずか5歳で御三卿の1つ・清水徳川家の当主に就任。清水家は江戸時代を通して将軍の子供などが養子として家を継承するパターンが多く、家斉が後に紀州藩に入った後も、異母弟である斉明(なりのり)が清水家を継いでいます。

1816年、斉順は紀州藩10代藩主である徳川治宝(はるとみ)の五女、豊姫と結婚。治宝の婿養子となります。8年後には晴れて11代藩主となりますが、実権は治宝が握っており、それぞれの側近が争う場面もあったと言われています。

当時の紀州藩の財政は厳しく、幕府からの援助に頼っていました。当時、幕府が大名や旗本にタダで貸し付ける「拝借金(はいしゃくきん)」というものがありましたが、紀州藩の拝借金は4万5千両にのぼったと言われています。1842年の幕府全体の拝借金が12万両近くあったと言われており、紀州藩の拝借金の多さが幕府財政に与えた影響が伺えます。

こうした背景から、斉順が大坂から米2万俵を借用した記録が残されています。一方で「御仕入方」と呼ばれる藩の物産を扱う役所や熊野三山の権益は養父の治宝が掌握しており、斉順が思うような政治を行うのは難しかったのが予想されます。

1846年の5月、斉順は46歳で亡くなりました。ちなみに家茂が産まれたのは同年7月だったため、家茂は父に会った事がありません。ちなみに養父の治宝は1853年(82歳)まで生存しており、家茂(慶福)が藩主となった1849年においても、その影響力を保持していました。

徳川家茂の母親 実成院はどんな人?

家茂の母親は実成院(じつじょういん)という人物です。
「実成院」とは落飾(出家)してから名乗った名前(院号)で、本名は美佐(みさ)と言いました。

1821年、藩内の格式ある家(松平一門の1つ・久松松平家の末裔)で産まれた美佐は、11歳頃に藩に仕える事となりました。後に20歳ほど年の離れた斉順の側室となり、1843年には伊曾姫を産みますが、その1年後に亡くなってしまいます。とてもショックだったでしょうね…。
更に46年には斉順も逝去します…が、その2ヶ月後に美佐は現在の東京・赤坂にある紀州藩邸で男児を出産します。赤ん坊は菊千代と名付けられました。この様子を、当時の江戸の人々は「紀州蜜柑に種が有る」と話題にしたと言われています。

その後、美佐は斉順の跡をついで紀州藩主となった斉彊(なりかつ)から菊千代の教育を命じられます。しかし斉彊はその3年後に亡くなってしまい、菊千代は慶福と名乗り藩主となりました。藩主の母となったこの時期、美佐は出家(落飾)して「実成院」と名乗ります。

1858年、慶福が14代将軍となり「家茂」と名乗り江戸城に迎え入れられたこの時期、実成院も一緒に江戸城の大奥へ入ります。どうやら実成院は酒や派手に過ごすのが好きだったらしく、場内で乱痴気騒ぎを起こした様子が伝わっています。

家茂は1866年に大坂城で亡くなりますが、息子の早すぎる死に実成院がどのような言葉を残したかは記憶に残っていません。新政府による江戸城明け渡し後は、実成院は家茂の妻である和宮と共に田安家の屋敷に入りまます。そして1904年、実成院は84歳で死去。その墓は東京都台東区にある寛永寺にあります。

徳川家茂の子供(養子)について

激動の幕末の21年間を生き抜いた家茂ですが。彼に子供はいたのでしょうか?

家茂は16歳で和宮と結婚してますが、二人の間に子供はできませんでした。家茂は他に側室を置かなかったので、彼の血を引く子供はいないという事になります。

徳川家茂の猶子・華頂宮博経親王とは?

そんな家茂ですが1860年、華頂宮博経親王(かちょうのみや ひろつねしんのう)という皇族を猶子として迎えていました。猶子は養子と似た概念ですが、養子が家督相続を前提とした擬似的な親子関係なのに対し、猶子は相続がない親子という事になります。
当時、有力者の猶子となる事は子供側にとって箔が付くメリットがあり、鎌倉時代には平賀朝雅が源頼朝の、安土桃山時代には豊臣秀吉が近衛前久の猶子なった事例が知られています。
ちなみに華頂宮博経親王は同じ1860年に孝明天皇とも猶子関係を結び、親王宣下を受けた経緯があります。家茂の妻の和宮は孝明天皇の妹でもあるため、家茂にとって華頂宮博経親王は擬似的な甥にもあたります。ややこしい…

紀州藩を継いだ家茂の「養子」徳川茂承について

ちなみに「家督相続」という点で言えば、家茂は一時期紀州藩の藩主でした。家茂の後に紀州藩を継いだ(養子となった)のは徳川茂承(もちつぐ)という人物です。養子といっても家茂は1846年、茂承は1844年産まれだったので、茂承の方が2歳年上ではあったのですが…
家茂と茂承はとても仲が良かったようです。茂承は1866年の長州征伐で総督を努めますが、戦場に赴く前に家茂から直々に陣羽織と采配を授かったエピソードが残されています。家茂死後、その養子である茂承を次の将軍にする動きもありましたが、茂承はこの要請を受ける事はなく、徳川慶喜を支持しています。
ちなみに鳥羽・伏見の戦いの後、紀州藩は新政府軍に攻め込まれそうになりますが、茂承は恭順の姿勢を示し軍事力や金銭を提供したためこれを免れます。明治時代には和歌山の藩知事や貴族院議員にもなり、1906年に63歳で亡くなりました。

徳川宗家を継いだ「養子」慶喜との関係について

そんな徳川慶喜ですが、家茂にとっては自身亡き後の徳川宗家を継いだ「養子」という存在でもあります。家茂と慶喜の関係については1865年、家茂が慶喜をどう思っているかのエピソードが残されています。この年の10月、上洛中だった家茂は幕府に対する朝廷の態度に不満を抱き、将軍を辞めて後継者に慶喜を推すよう言い残して江戸に帰ろうとします。
この家茂のセリフは慶喜を評価しているというよりも、「将軍である家茂が京に滞在して欲しい」と考えている慶喜への当てつけだと言われています。当時の慶喜は朝廷内で一定の発言権があり、家茂はこれをよく思わなったそうです。
もともと将軍継嗣問題で争った2人ですから、仲の良さを求めるのはなかなか難しい面があるのかもしれませんね。

まとめ

徳川家茂の家族というテーマで、父親の斉順や母親の実成院、子供の有無についてご紹介しました。
まとめると、以下のようになります。

・家茂の実父は徳川斉順。家茂が産まれる2ヶ月前に亡くなっている。
・家茂の母親は実成院。酒好きで派手好みなエピソードが残っている。
・家茂には子供がいなかったが、「養子」「猶子」にあたる人物が3人存在する。

この時期の親子関係はややこしいですね!