最近では、エジプト展や「王家の紋章」のミュージカル化など、古代エジプトが舞台となった小説や漫画もあり、エジプトの歴史に興味を持つ人も多いと思います。

エジプトの歴史と聞くと、ピラミッドやスフィンクス、ミイラや発掘といったワードを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。

そういったことに興味をもった、またこれからエジプトの歴史を勉強しよう!という人たちに…
エジプトの歴史を簡単にまとめましたので、ご紹介したいと思います!

古代エジプト文明からササン朝~王の権威の象徴と宗教に翻弄される国民~

はじめに、古代エジプトの歴史から順を追って紹介します。

中学校の授業で、世界四大文明を習う人が多いですよね。
その中の一つがエジプト文明です。ナイル川を中心にエジプト文明の基として、国が発展していきました。

ファラオと「ピラミッド時代」


そんなエジプトの王は、「ファラオ」と呼ばれ、王を神として崇める神権政治を行います。そしてファラオの象徴といえる、ピラミッドが4700年前にはじめて建設された。その次に、あの有名な三大ピラミッドです。この時代は、技術・知識ともに最高水準であることから「ピラミッド時代」と言われています。
ピラミッドは、神である王の特権によって国民が建設しました。

ところで、ピラミッドを建設したのは奴隷だと思う人が多いのではないでしょうか
実は、奴隷ではなく労働の対価をもらっていた、国民がピラミッドを建設していたのです!!

その対価とは、パン3∼4斤とビール約4リットルでした
ビールと聞くと、ドイツをイメージする方が多いと思いますが、実は古代エジプト人には労働の対価であり、ピラミッド建設の仕事の後に楽しみでもありました。

当時の人々には身近なもので、居酒屋などでも飲む人が大勢いたようです。
現在より度数が高いため、酔いつぶれたりして周りに迷惑をかける人がいたなど、現在の酔っ払いとも通ずるところがありますよね。
つまり、ピラミッドは国民の汗と涙とビールでできているといっても過言ではないですね。

多神教から一神教へ。アメンホテプ4世の改革

古代エジプトは多神教を宗教としていました。様々な神がおり、時代や統治する王によって変化していました。

国民には信仰の自由はないため、宗教改革によって苦しめられることもありました。その宗教改革で有名なのが「異端の王」で知られるアメンホテプ4世の行った政策です。
彼は、ツタンカーメンの父親でもあり、妻はエジプトの三大美女の一人であるネフェルティティでした。

彼の改革は、多神教から一神教にしたということです。つまり、何千年も信仰してきた古代エジプトの神々を否定し、アテン信という神以外の神を禁じる改革を行った。

現代でたとえるなら、今日より民主主義から社会主義になるようなものです。そうなったらそりゃあ、怒りますよね。当時も反発する人はいたようですが、アメンホテプ4世が弾圧したため、国中で不満を募らせる国民が増大しました。

アメンホテプ4世の死後、ツタンカーメンがファラオ(王)となり一神教を引き継ごうとしましたが、願いはかなわず多神教に戻り、国民も穏やかな生活を取り戻しました。

クレオパトラは本当に美人だったのか?


古代エジプトの最後を飾るのは、絶世の美女・クレオパトラ!本当に美しかったのか、気になる人がいますよね。

世界三大美人の一人であるクレオパトラは、だれしも一度は聞いたことのある名前ですよね。このクレオパトラの生まれた時期は、エジプトであってもギリシャ人血筋です。そのためクレオパトラもギリシャ人です。クレオパトラは、多くの敵国の要人を誘惑したり、謎の死を遂げるなど様々な逸話が残っています。
クレオパトラの人生については以下の記事をご覧になってみてください。

※参照:クレオパトラってどんな人?年表や美人だったのかを解説!

世界三大美人であり、自国の男性だけでなく敵国の男性が虜になるほどの美女というのは興味がありますよね。
そんなクレオパトラですが、実は美人ではなかったという説があるのを知っていますか?残された肖像画から、「美人」に当てはまるものではないという研究結果があるそうです。しかし、それは当時と現在の美人の定義の違いからくるものがあり、美人と断定することができないそうです。

だとすれば、クレオパトラの何が男性を魅了していったのでしょう。
彼女はとれも美しい声をしており、ダンスや七か国語を操ることのできる女性であったそうです。また、様々な分野において博識であったため、男性の話す内容に理解でき、話しが上手であったため男性が虜になったのだと思います。
つまり、クレオパトラは容姿だけでなく、人を引き付けるような魅了を多くもっていたことで、心が美人であったのだと考えられます。

みなさんの周囲にもいませんか?絶世の美人ではないけれど、男性にモテる人がいると思います。その人は、話しが上手であったり、博識であったりしませんか?
そういう人が周囲にいたのなら、その人は現代のクレオパトラかもしれませんね。

征服するかされるか?!イスラームの征服からオスマン・トルコの統治下

クレオパトラが最後の女王であったプトレマイオス朝が滅ぶと、エジプトはローマの属国になり、エジプト文明の幕が下りました。

ローマの属国になり、エジプトは穀物供給地として重視されていました。
そのローマが395年に東西に分裂し、エジプトはビザンツ帝国(東側)の属国に分類されましたが、重要な穀物供給地には変わりありませんでした。

イスラームによるエジプトの発展


その後、イスラーム教(アラブ軍)勢力がエジプトに侵入し、アレクサンドリアを占拠しイスラームによる統治が始まり、現在のカイロの元となる都市フスタートを拠点としました。

イスラームによる統治が始まり、エジプトではイスラム教の教えが広まりました。これにより、エジプトのキリスト教徒は弾圧されたといいます。現在のエジプトでもイスラム教は人口の9割を占めていることから、この時期を原点としてイスラム教になったのだと考えられます。

正統カリフ時代をというのを知っていますか?正統カリフとは、イスラム教の教祖であるムハンマドの後継者をカリフとして、教えを厳しく守られていたです。その正統なカリフは、四代で途絶えてしまい後継者争いに発展しました。四代目カリフであるアリーまでをカリフと認める「シーア派」、ムハンマドの正統な血筋を重視するのではなくカリフとしての能力を重視する「スンナ派」に二分しました。

そんなエジプトは、「シーア派」の中心都市となり、シーア派法学の研究のためにアズハル学院が建設されました。
11世紀には十字軍の侵攻が始まり、この頃にはイスラーム勢力は弱体化していたため十字軍への反撃はシリアの王朝によって開始されました。たびたび十字軍が侵攻するようになり、シリアから派遣されたサラディンという人物がエジプトの宰相に任命されました。サラディンは、エジプトの実権を奪いアイユーブ朝という新たな王朝を成立させ、シーア派からスンナ派に変えてしまいました。そのため、アズハル学院もスンナ派の研究機関と一変することになります。

サラーフが成立させたアイユーブ朝もマムルーク朝によって滅ぼされ、そのマムルーク朝も小アジアのオスマン帝国の攻撃によって1517年に滅亡。エジプトはオスマン帝国の領土になってしまいます。
オスマン帝国は、エジプトだけでなくバルカン半島や小アジア、地中海を支配する大帝国となり、聖地メッカの保護権を得てイスラームにおける盟主となりました。

ムハンマド・アリー現る?!これが現在のエジプトに通ずる道!


長年、エジプトはオスマン帝国に支配されていましたが、その帝国が衰退の一途を辿っているとアラブの民族意識が高まり、独立運動がおこりました。その先頭をきったのが、当時のエジプト総督であるムハンマド・アリーでした。エジプトは事実上、ムハンマド・アリー朝を作り、独立を達成しました。

ムハンマド・アリーによるエジプト近代化

そんなムハンマド・アリー朝の目標は、オスマン帝国からの完全な独立と、欧州の強国と戦える国力を身に付けることでした。
そのために邪魔になる勢力を排除し、西欧の近代化に習い工場の建設に力をいれて、紡績、織機、兵器生産など西洋技術を積極的に取り入れ、富国強兵を目指しました。まるで、明治時代ごろの日本のようですね。

オスマン帝国の弱体化の隙をついた、ムハンマド・アリーは周辺の国々を制圧し、シリアにまで勢力は伸びオスマン帝国とも戦うことになった。その際に、イギリスなどの欧州列強国の介入によって問題となったが、1840年にムハンマド・アリー朝は国際的に認められました。

しかし、独立を認められても宗主国であるオスマン帝国がイギリスと不平等条約を結んだことによって、エジプトもその打撃を受けることになります。関税自主権はなく、治外法権は認められているという日本とは少し違う待遇ですね。

イギリスによる統治とエジプト独立運動

その後も実質的なイギリスによる支配は続きます。
19世紀末には、イギリスだけでなく、フランスの支配を受けるという両国の二重管理下に置かれていました。
その体制に耐えかねたエジプト人将校・ウラービー大佐が「エジプト人のためのエジプト」をスローガンのもと、ウラービー革命をおこしました。
この革命は、エジプトの最初の民族民主運動とされており、イギリスやフランスだけでなく、オスマン帝国に対しての多面的な反乱といわれています。その反乱は、イギリスの軍隊によって鎮圧され、事実上でイギリスが保護国となりました。

その後、イギリスは第一次世界大戦に突入します。エジプトのカイロを拠点として、イギリスはオスマン帝国などの敵国の攻撃指揮をとる場所としました。つまり、エジプトはイギリスにとって都合の良い場所にあったと言えますね。
エジプトは穀物供給地であったのを覚えていますか。この当時も戦闘する兵士の大事な食糧源になっていたことでしょう。

第一次大戦後、形式的にはイギリスがエジプトの独立を認めましたが、エジプトにおける様々な権利を有したままでした。1953年に正式に独立を果たし、エジプト共和国が誕生しました。

その後も、宗教問題や中東戦争、政権の交代、軍に政権を奪われるなど様々な問題が続くエジプトですが、栄華を誇った時代も征服されていた時代もエジプト人としての誇りを持ち続け、悲願の独立を果たすことができたのでしょう。

まとめ

エジプトの歴史について簡単にまとめてみました。
要約すると、以下のようになります。

・ピラミッドの建設は汗と涙とビールの結晶である!
・多神教から一神教になったことで、国民は大混乱?!その犯人はツタンカーメンのお父さん!!
・クレオパトラは容姿ではなく、内面が絶世の美女であった。
・古代エジプト文明以降は、征服され続けたエジプトであった
・ムハンマドアリーによって、民族意識が高まり独立運動へ発展した。
・実質的に独立を果たしたのは1953年であった。

「ナイルはエジプトの賜物」と言われており、どの時代もエジプト人はナイル川に支えられてきました。現在でも、ナイル川はエジプトの人々にとって大事な資源の一つです。
そんなナイルという川によって発展した国の歴史は、謎に包まれている部分が多く、研究者によって歴史が紐解かれていくことに期待したいと思います。