「幕末の四賢候」として名を残した松平春嶽ですが、実はその生まれは福井県ではありません。
一体どこだったのでしょうか?
この記事では他にも、名乗った「春嶽」という号の意味や由来、そして春嶽が明治政府の中で果たした役割について詳しく調べてみました。
松平春嶽の生まれは越前ではない!?
福井藩主として有名な松平春嶽ですが、その生まれは福井県(越前国)ではありません。
春嶽は1828年の10月10日、江戸城の田安屋敷で生まれました。
今で言えば、地方出身の政治家の子供が東京で産まれるようなものでしょうか。
春嶽は幼少時から伊予松山藩主の養子となることが決まっていたのですが、当時の福井藩主が若くして亡くなったため、急遽越前松平家の家督を継承することとなります。
この越前松平家、家康の次男である結城秀康が家祖である超名門。御三家とは異なり「徳川」を名乗ることはありませんでしたが、将軍家の一族としては非常の高い格式を有していました。
そんな名家を11歳で継承するなんて、今の時代から考えると考えられないことですよね。私だったら想像するだけで冷や汗をかいてしまいます…!
松平春嶽の号「春嶽」の意味や由来とは?
そんな松平春嶽ですが、号である「春嶽」とは、一体どのような意味なのかご存知ですか?
実は「春嶽」という号の意味や彼がこの号を名乗った明確な理由は、明らかにはなっていません。
ただ以下を紐解くと、多少なりとも「春嶽」と名乗った理由が見えてくるかもしれません。
・1858年、時の大老・井伊直弼によって蟄居を命じられた時期から「春嶽」と名乗っていた。
・春嶽は他にも「礫川(れきせん)」「鴎渚(おうしょ)」という号を名乗っていたが、一番用いていたのは「春嶽」だった。
・春嶽の養子として福井藩を継承した松平茂昭(もちあき)は巽嶽(そんがく)と号していた。
また、春嶽が治めていた越前国(福井県)にはいくつかの山がありますが、その中でも彼は日野山という場所を最も気に入っており、謹慎中に以下の句を詠んでいます。
「雲はれて仰ぐも高き日永嶽 みどり匂へる春日影かな」
このうち「春日影」の”春”と、山を意味する「嶽」の字を合わせて「春嶽」と号したのでは?という説も存在するようです。
ただしかし、これも数ある1つの説に過ぎず、「春嶽」の意味や由来は正式には分かってないのが実情です。
松平春嶽は明治政府で何してたの?
桜田門外の変によって井伊直弼が暗殺された後、松平春嶽は幕政に復帰します。徳川慶喜が朝敵となった際も、その助命や徳川宗家の存続に力を尽くしました。
※参照:政事総裁職をわかりやすく解説。松平春嶽の他に就いた人はいる?
そんな春嶽ですが、明治政府では何をしていたか、ご存知ですか?
明治政府で春嶽は内国事務総督や民部官知事をはじめ、現在の総務省の源流にあたる「民部卿」という役職や、財務省の元となった「大蔵卿」などの要職を歴任します。「大物政治家」という言葉がとても似合うポジションです。
「明治」という元号の名付け親も春嶽だと言われています。岩倉具視らと複数の元号を取りまとめ、最終的には明治天皇がくじで選んだと言われてます。また、春嶽ゆかりの人物であり、「五箇条の御誓文」を制定した由利公正も政府内で活躍しました。
春嶽は明治3年(1870年)に政府を去り、その後は文筆活動などを行い、その20年後に世を去ります。ちなみに69年にはかつての政治顧問であった横井小楠が暗殺されており、彼なりに何か思う事があったのかもしれません。
この記事のまとめ
松平春嶽の生まれは越前国(福井県)ではなく東京にあたります。元々他家の養子になる予定でしたが、急遽福井藩の跡継ぎとなる事になりました。
号した「春嶽」の意味は定かではなく、井伊直弼によって蟄居させられた後に名乗ったのは確かなようです。
「幕末の四賢侯」としても有名だった春嶽は「明治」という元号の名付け親としても知られています。明治政府でも3年のみですが要職を歴任しました。