森有礼(もりありのり)がどんな人かご存知でしょうか?

初代文部大臣として、日本の教育制度の基礎を作ったすごい人物です。

また、森有礼の子孫も様々な功績をあげていることで有名です。

今回は、森有礼がどんな人物だったのか、また成立に携わった教育制度や子孫について、わかりやすく解説していきます。

森有礼ってどんな人?「欧化主義者」と呼ばれた男の最後とは

明治日本の教育制度の基礎をつくった森有礼は1847年、薩摩藩藩士の家庭に生まれましました。

13歳頃には薩摩藩の藩校「造士館」で漢学を、17歳頃には藩の洋学校「開成所」で英語を学んでいます。

こうした知見があったからか、有礼は1865年に藩の留学生として英国に留学します。

この時、有礼ら留学生の案内役を担ったのが、明治期に関西経済の振興に欠かせない人物である五代友厚でした。

その後、有礼はロシアやアメリカを渡り1873年に帰国。

アメリカ在住時には、岩倉使節団の一員として派遣された津田梅子や大山捨松、永井繁子のワシントンにおける住処を斡旋したと言われています。

※参照:大山捨松の名前「捨松」の由来は?津田梅子との関係や子孫について

帰国後は福沢諭吉や西周、加藤弘之、津田真道らと欧米思想を啓蒙するため「明六社」を結成します。

明六社は『明六雑誌』という機関紙を発行し、近代日本に大きな影響を与えますがわずか2年で解散。

ただ、明六社は現在の日本学士院の源流として知られており、近代日本に与えた影響は大きなものがあります。

明六社時代、有礼は著書『妻妾論』の中で一夫一妻制を主張

自身の女子教育論を述べました。

その後、第一次伊藤内閣では初代文部大臣に任命されており、良妻賢母教育を推奨しています。

私生活では1875年、最初の妻である広瀬常と結婚してますが、この結婚は「日本初の契約結婚」と言われています。

なお、この新郎新婦の証人になったのは、明六社を共に設立した福沢諭吉でした。

当時の日本において、有礼の考え方は先進的な面が多々ありました。

いわゆる「欧化主義者」であった有礼に反感を持つ者も少なくなかったようで、有礼は1889年の大日本帝国憲法発布式典の日、永田町官邸で暴漢に襲われ翌日に落命してしまいます。

当時、ある「大臣」が伊勢神宮を訪れた際、社殿のすだれをステッキで退け、拝殿を土足で上がった事が新聞で話題になっていました。

暗殺犯は、この「大臣」が有礼だと思っていたようです。

「大臣」が有礼にあたるのかは現代でも明確ではないのですが、欧化主義者の有礼に対して人々がどう思っていたのか?を示すわかりやすいエピソードであるようには思います。

日本の教育制度に森有礼が与えた影響とは?


森有礼といえば、明治期の日本において教育制度の確立に尽力した事で知られる人物です。

教育に非常に強い関心をもっていた有礼は、この分野に関する様々な取り組みをアメリカ留学時から行っています。

アメリカの教科書を集めていたり、相手国の有識者に日本の教育に関する意見を聞いて回るなど。こうした有識者の返答として、1872年には『Education in Japan』という書物を発行しています。

そんな有礼の最も有名な功績の一つが、現在の一橋大学の前身である「商法講習所」の設立です。

有礼は、外交における商業の重要性を感じ、商業を専門に教える学校の開設に尽力したのでした。

なお、この時の有礼に力を貸したのが福沢諭吉と渋沢栄一でした。

1万円札に取り上げられた2人の人物が共に有礼に力を貸したのは興味深いですね。

その後、有礼は1885年に第一次伊藤内閣の文部大臣に就任。

この時の有礼は学校制度全般に関する改革に奔走し、学校種別ごとに「学校令」を制定しました。

この時定められた学校制度によって、今の日本の学校制度は形づくられたと言えます。

1886年には東京高等師範学校(現在の筑波大学)の設立にも携わるなど、有礼が日本の教育制度に果たした役割は非常に大きなものがありました。

森有礼に子供はいたの?子孫についても調べてみた!


そんな森有礼ですが、子孫の方は現在でもいるのでしょうか?

森有礼は生涯2回結婚しており、最初の妻である広瀬常との間に2男1女、後妻である岩倉(森)寛子の間に1男の計4人の子供を授かっています。

このうち長男の森清は父の跡を継ぐ形で子爵となり、その位は有礼の孫にあたる森有剛に受け継がれました。

有剛には有一、洋子という2人の子供がいたそうです。

また、有礼と寛子の子供である森明はクリスチャンになり、プロテスタント(カルヴァン派)の流れを汲む日本基督教団中渋谷教会を設立しました。

ちなみに寛子は岩倉具視の五女であり、有礼にとって岩倉具視は義父にあたると言えますね。

森明は森有正、関谷綾子という2人の子供に恵まれました。

このうち森有正は、森有礼の孫にあたり、哲学者・フランス文学者として活躍しました。

数多くの哲学的なエッセイを執筆し、1968年に発表した『遥かなノートル・ダム』は、芸術選奨文部大臣賞を受賞しています。

また有正の妹でもある関谷綾子は、平和活動家として世界平和の実現にむけ活動をしました。

1984年からは世界の平和について訴えを行う「世界平和アピール七人委員会」の委員を務めています。

まとめ

森有礼がどんな人なのかを、取り組んだ教育政策や子孫の方も踏まえご紹介しました。

森有礼は、伊藤内閣のもと初代文部大臣として日本の教育制度の基礎を築いた
商法講習所の設立や学校令の制定といった教育関する様々な取り組みを行った
子孫には、哲学者の森有正や平和運動家の関谷綾子がいる

上記で解説した以外にも、森有礼は英語を国語とする「国語外国語化論」を提唱したり、全国の女学校に良妻賢母教育の内容を記した「生徒教導方要項」を配布するなど、我が国の教育制度の樹立において多大な貢献を果たしています。

急進的な側面もあった有礼ですが、明治期の日本において重要な人物の1人であることには間違いないでしょう。