上の写真を一度は教科書で見たことがあるんじゃないでしょうか。
そう、岩倉使節団に同行した、日本初の欧米への女子留学生たちです!
でも、どうして彼女たちは留学することに?留学後はどうなったの?
今回はメンバー内で特に有名な大山捨松に焦点を当てて、津田梅子との友情、印象的な名前の由来、そして彼女の子孫について紹介していきます!
(写真右端が捨松。白いドレスが梅子です)
捨松の由来は母親の「捨てたつもりで待っている」!?
大山捨松というと「捨松」という名前がまず目に留まりますよね。
この名前には何か由来があるのでしょうか…?
「捨松」の由来は、母親の「一度は捨てたつもりで帰国を待つ(松)」という母の想いからきたものです。
捨松は1871年、わずか11歳で岩倉使節団のいち員として米国に留学しているのです。
その背景については、彼女の出身地である会津が密接に関わっています。
大山捨松は1860年、会津藩士の家に末っ子として生まれました。
もとの名前は山川さき(咲子)といい、生家の山川家は会津藩の家老の家柄でした。
では、そんな名家令嬢の彼女が、海外に行くという当時ハイリスクだった行為を冒すことになったかというと、ぶっちゃけ会津が戦争で負けたからです。
咲子が留学した1871年(明治4年)当時、戊辰戦争に敗北した会津藩士たちは、紆余曲折あって斗南(となみ)藩(現在の青森県の一部)という3万石しかない土地に移住していました。
しかし斗南藩は住んでびっくり、実際は3万石どころかほとんど食べ物が採れない土地だったのです…。たちまち飢餓が藩士たちをおそいました。
つまり実質会津藩士まるごと流刑のような状況…。
そんな中で女子留学生の募集を聞きつけ、咲子を応募させたのは長兄の山川浩です。
山川家の家長である浩は、藩の指導者でもありました。
藩の惨状を見るにつけ、妹の将来を考えかなり賭けに出た決断をせざるを得なかったのでしょう。
咲子は留学に際し、先述した通り名前を「捨松」と改めました。
今でも11歳の子供を留学させる親はなかなかいないでしょう。ましてこの時代。母親の心中はいかがなものであったか…
当時の日本で海外へ行く行為は、現代でいうと宇宙に行くような感覚なので、無理もないです。
大山捨松と津田梅子は大親友だった!?
捨松は留学から11年後、無事にヴァッサー大学を卒業し帰国します。
ちなみにアメリカの大学を卒業した最初の日本人女性といわれています。
同じく留学から帰国した津田梅子と捨松は生涯を通じて友情をはぐくみました。
公私共に付き合いがあった二人ですが、公の部分を上げると、
・華族女学校の開設に尽力(梅子は英語教師)
・日本初の慈善バザー開催
・女子英学塾(のち津田塾大学)の設立
これらを共同で行いました。
特に女子英学塾の設立にあたって、捨松はボランティアとして梅子をサポートしています。
この2人はまさに日本の近代女子教育の先駆者といえるでしょう!
一方でプライベートでは、留学仲間の瓜生繁子の家に集まってテニスをしたりして、サロンのようになっていたそうです。
英語で会話をしながらテニスに興じる女性たちは、日本にいながらにして異国を見るような光景ですね。
捨松も梅子も長い留学生活で、すっかり日本語より英語のほうが染みついていたらしいですよ。
ちなみに、アメリカに渡ったばかりの捨松や梅子、瓜生繁子の面倒を見たのが、後に日本初の文部大臣となる森有礼でした。
当時の森有礼はアメリカ駐在少弁務使という役職に就いており、捨松との付き合いは帰国後も続いたと言われています。
※参照:森有礼ってどんな人?教育制度や子孫についてわかりやすく解説
大山巌とのロミジュリ婚!?と子孫について
ところで、大山捨松には子孫はいるのでしょうか?
捨松は23歳で陸軍卿の大山巌と結婚し、姓を「山川」から「大山」に改めています。
巌と捨松は18歳も年が離れていて、しかもなんと巌は戊辰戦争で会津に攻め入った薩摩藩の出身!
なので、この夫婦はリアルなロミジュリ婚として語られることが多いです。
鹿鳴館での西洋式外交において、捨松が「鹿鳴館の貴婦人」とうたわれたのも、巌との結婚直後のことです。
2人の間には2男2女の計4人の子供が産まれました。
このうち長男の高は不幸にも若くして船の事故で亡くなり、次男の柏(かしわ)が後を継ぎました。
明治から大正に移り変わり、柏は近衛文麿の妹・武子と結婚します。
長男の梓は法学博士になり、大学で教鞭を執っていましたが、1992年に76歳で亡くなりました。
梓には由美子という女性がおり、延広知児という人物に嫁いでいます。
この方について調べてみると「大山知児」という名前が見つかり、中央大学の商学部で研究をなさっているようです。
※引用:https://jglobal.jst.go.jp/detail?JGLOBAL_ID=201701008937459710
また、柏の次男である桂(かつら)は海洋生物学者で、特に貝類を専門とされてたようです。
捨松の子孫は学級肌の家系なのかもしれませんね。
桂は生涯独身を貫いたようで、こちらの系統は残っていないようです。
まとめ
大山捨松の名前である「捨松」の由来や津田梅子との関係、捨松の子孫についてご紹介しました。
まとめると以下のようになります。
1.「捨松」の由来は母の想いから
2.津田梅子とは留学時代から生涯を通じよき理解者同士だった
3.捨松の血脈は次男・柏から現代に続く
捨松は1919年、58歳という早い年齢で生涯を閉じました。
「ドラマチック」という言葉がふさわしい一生だったと記事を書いて思いました。