日本史の幕末でよく出てくる将軍後見職、政事総裁職、京都守護職ですが、どの役職が何をしてるのか、ややこしいですよね。
そこで今回は、この3つの役職についてわかりやすく解説します。
どのような役職なのか、誰が就任したのか、何をしたのか等を見ていきましょう!
将軍後見職とは?設置された背景もわかりやすく解説
まず将軍後見職ですが、これは幕府の将軍が年少の場合、その代わりに仕事を行う役職です。
当時の将軍・徳川家茂が年少だったことから、1862年の5月に一橋慶喜(徳川慶喜)が任命されました。
この将軍後見職、元々は1858年に当時の大老・井伊直弼の主導で置かれた地位であり、実は正式な幕府の役職ではありませんでした。1862年5月、薩摩の島津久光が朝廷に幕政改革を働きかけた事で、朝廷は幕府に対して改革を実施するよう要求するのですが、その過程で慶喜が就任したことで、正式な役職となった経緯があります。
将軍後見職に就任した慶喜は、島津久光や後述する政事総裁職である松平春嶽と共に幕政改革を行います(文久の改革)が、意見の食い違いから次第に対立します。
1864年に慶喜は将軍後見職を辞任。久光や松平春嶽はそれぞれの領国に帰ってしまいます。
慶喜は代わりに「禁裏守衛総督」という新設の役職に就任し、京都守護職の松平容保らと共に政治を進めていくのです。
※参照:将軍後見職について簡単に解説。初代は一橋慶喜ではなかった?
政事総裁職をわかりやすく解説。もとは大老と同じだった?
政事総裁職とは、幕末に大老に代わって設置された役職です。
1862年8月に福井藩主・松平春嶽が就任しました。
島津久光の働きかけにより、朝廷は幕府に対して松平春嶽を大老にするよう促します。しかし春嶽は「大老は譜代大名がなるもの」として断ったため、急遽この政事総裁職が新設されたのです。
春嶽は慶喜らと共に、参勤交代の緩和や幕府軍隊の西洋化、服装の簡素化、洋学の研究などを改革を進めます。
その中で将軍・徳川家茂の上洛のために京都へ上りその準備に取り掛かりますが、尊攘派の公家や志士の動きが激しく、春嶽が推し進める改革はなかなか思うようにいきませんでした。
そのような中、慶喜までもが尊攘派に妥協します。これに限界を感じた春嶽は、政事総裁職を辞職し領国に帰ってしまうのです。
春嶽の後任の政事総裁職には、川越藩主の松平直克が就任するが、1864年3月に水戸藩で勃発した天狗党の乱の対応において幕閣と対立。政事総裁職を罷免されてしまいます。
以後、政事総裁職に任命される人はおらず、江戸幕府は終演を迎えます。
※参照:政事総裁職をわかりやすく解説。松平春嶽の他に就いた人はいる?
京都守護職とは?役割や新選組との違いについて!
京都守護職は京都の治安維持や御所、二条城の警備を行う役職です。
こうした治安維持や警護は、もともと京都所司代や京都町奉行といった役職が行っていました。しかし、京都で尊攘派の志士が盛んに活動するようになると、こうした役職だけでは彼らを取り締まるのが難しくなっていました。
そのような中設けられたのが京都守護職で、1862年9月に会津藩主・松平容保が就任します。その背景には、幕政改革を進める松平春嶽の強い推薦があったと言われています。
容保は京都守護職の務めをよく果たし、八月十八日の政変や禁門の変で活躍。長州藩に打撃を与えました。こうした出来事が、後に会津藩が新政府から敵視される土台を築いていく事にもなるのですが…
守護職は京都所司代や町奉行などを統括しており、非常時には畿内の諸大名に対する軍事指揮権を持っていた非常に大きな権力を持った役職でした。新選組を傘下に入れていた事でも有名ですね。
1868年の王政復古の大号令によって、新政府が京都を勢力下に収めたことで京都守護職は廃止されています。
※参照:京都守護職をわかりやすく解説。京都所司代や新選組との違いとは?
この記事のまとめ
将軍後見職、政事総裁職、京都守護職の違いについてわかりやすく解説しました。
この3役職を簡潔にまとめると、以下のようになります。
・将軍後見職
将軍が年少の場合にその職務を代行する役職。
島津久光が幕政改革を朝廷に働きかけた結果、一橋慶喜が就任。
・政事総裁職
大老の代わりに置かれた役職。
松平春嶽が就任し、慶喜と共に幕政改革(文久の改革)を進めた。
・京都守護職
京都の治安維持や御所の警護にあたる役職。
松平容保が就任。傘下には京都所司代や新選組などがいる。
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