「政事総裁職」って聞いたことがありますか?
政治ではなく、政事です。
なんだか現在の政治ニュースで出てくるような言葉ですが、これは実は江戸時代の職業なんです。
日本史が好きな方や時代劇が好きな方はもしかしたらご存知かもしれませんね。
具体的にこの「政治総裁職」とはどんな役割を持っていたのでしょうか?
またどんな人物がいたのでしょうか?
就任にした松平春嶽の事績や、その後任である松平直克についても見ていきましょう!
政事総裁職とは?どのような役職かをわかりやすく解説
政事総裁職とは幕末の江戸幕府に置かれていた役職です。言葉の感じから何だか偉い人のようですね。
幕府内外の政務を総括し将軍を補佐するために設けられた職です。将軍後見職・京都守護職と並ぶ江戸幕府三要職の一つともいわれています。有名な政事総裁職としては松平春嶽(慶永)や松平直克がいます。
※参照:松平春嶽の生まれや「春嶽」の号の意味。明治政府では何してたの?
政事総裁職が設立されたきっかけは1862年に薩摩藩の島津久光が提唱した「文久の改革」にさかのぼります。当時の薩摩藩は京都での勢力を強めており、幕政改革をしきりに働きかけていました。その一環として、一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍後見職に,松平春嶽を大老に登用せよとの勅諚が出たのです。
しかし、大老と老中は譜代大名が就任する慣例があったので、徳川一門である松平春嶽を大老にさせることができませんでした。そのため、春嶽を幕政に参与させるために新しくこの職が新設されたのです。少々、強引な方法だったのですね。
こうして1862年の8月、春嶽は新しく設置された政治総裁職に就任。幕政改革を進めていくのです。
初代政事総裁職・松平春嶽の事績について
政事総裁職としての松平春嶽の事績には、参勤交代の緩和や軍隊の西洋化、京都守護職の設置による都の治安維持、14代将軍・徳川家茂の上洛などが挙げられます。彼は慶喜や勝海舟、大久保一翁らと共にこうした幕政改革を進めていきます。
春嶽や慶喜が進めていたのは「公武合体」の推進でした。「公」は公家すなわち朝廷を,「武」は武家である江戸幕府をさし、朝廷と幕府との合体を目指すというものです。
この時、春嶽のよきプレーンとなったのが横井小楠(よこい しょうなん)という人物です。横井小楠はもともと熊本藩出身の儒学者でしたが、春嶽は以前から彼を高く評価しており、過去に3回も福井を訪れた事がある人物でした。小楠は春嶽のプレーンとして幕政改革に携わり、幕府や一橋慶喜に対しても度々意見を述べています。
また、この時期の春嶽・小楠は、土佐藩を脱藩していた坂本龍馬と面会していた事でも知られています。
公武合体を目指す春嶽は1863年の2月に京都へ上り、将軍・徳川家茂の上洛の準備を進めます。しかし、当時の京都は尊皇攘夷派の志士や公家(朝廷)の力が強く、春嶽や慶喜が思い描く改革は中々進みませんでした。特に攘夷の実行に対して春嶽は強硬に反対しますが、一橋慶喜はこうした意見に妥協する姿勢を見せ始めます。
慶喜のこうした姿勢や尊攘派の公家に対抗するのが難しいと考えた春嶽は、翌月に政事総裁職の辞任を決意。受理されないまま領国の福井に帰ってしまったため、「罷免」という形で政事総裁職を辞める事となりました。
二代目の政事総裁職・松平直克について
一般的には「政事総裁職=松平春嶽」というイメージがありますが、他にこの役職に就いた人物はいるのでしょうか?
春嶽の後任として政事総裁職に就任したのは、松平直克(まつだいら なおかつ)という人物でした。松平直克は川越藩(今の埼玉県川越市)の藩主で、63年10月に政事総裁職に就任します。
翌年、直克は将軍・家茂と特に上洛し、朝廷や有力大名が集う参与会議のとの折衝にあたります。なお、この時の参与会議のメンバーには春嶽や慶喜、「文久の改革」を提唱した島津久光も含まれていました。しかし参与会議は発足時からメンバー間で意見の食い違いがあり、特に横浜港の鎖港問題では開港を進めようとする久光と、彼や薩摩藩を警戒する慶喜が対立したことで1864年の2月に崩壊します。
この時、政事総裁職であった直克は慶喜と共に鎖港を推し進める立ち位置でした。
同年3月には、横浜鎖港がなかなか進まない事に立腹した水戸藩の藩士・藤田小四郎が「天狗党の乱」を起こします。直克は幕閣の中では鎮圧に反対する立場を取っていましたが、当時の幕府内の有力者である板倉勝静(いたくら かつきよ)、牧野忠恭(まきの ただゆき)らと対立します。最終的には1864年の6月、直克は政事総裁職を罷免されてしまい、幕府は天狗党の乱鎮圧へと進んでいくのです。
直克の後に政事総裁職に就任する者は現れないまま、1867年に江戸幕府は終演を迎えました。
記事まとめ
政事総裁職についてわかりやすくご紹介しました。
政事総裁職は大老と似たような役職です。もともとは福井藩の松平春嶽を大老に任命したかったのですが、親藩大名は大老になれないため急遽新設された経緯があります。
実際に就任したのは春嶽と松平直克の2名だけで、両名とも幕末の政争下の中、強い意志で自身の職務にあたっていたイメージがありますね。この2人の事績も、明治維新に向かう1つのパズルのピースだったのかなと思います。
なお、以下の記事では政事総裁職と同じ「幕末の三要職」とされる京都守護職、将軍後見職との比較も行っています。あわせてご覧になってみてくださいね。
※参照:将軍後見職、政事総裁職、京都守護職の違いをわかりやすく解説!