平安時代末期の主要人物として真っ先にあげられる、後白河法皇と平清盛
法皇と清盛の関係はどのようなものだったのでしょうか。

後白河法皇がなぜ清盛によって幽閉されたのか、幽閉先の場所はどこだったのかも踏まえながら、この2人の関係についてご紹介します。

後白河法皇と平清盛の関係はどのようなものだったのか?

後白河法皇と平清盛の関係は、1156年の保元の乱からスタートします。
当時天皇だった後白河は、兄の崇徳上皇と次の権力の座を巡って対峙することとなりました。ふたりはこの戦いに勝つために武士たちに協力を求めます。この時、後白河天皇が協力を求めたのが平清盛でした。

戦いの結果、清盛らに協力を求めた後白河側が勝利をおさめますが、その2年後に後白河は第一皇子の守仁親王(二条天皇)に位を譲り上皇となり、院政をスタートします。
やがて後白河院政は二条天皇と対立し、側近の信西や藤原信頼も巻き込んだ平治の乱が勃発。この時活躍したのも清盛でした。平治の乱後、清盛は二条天皇の後ろ盾となって政治的基盤を確立する一方、徐々に政治から排除されていった後白河との関係にも気を配ります。平氏一族の平滋子が後白河上皇の妃となったのもこの時期です。

1165年に二条天皇がなくなると、後白河法皇は少しずつ権力を取り戻していきます。この少し前の1161年には後白河と滋子の間に憲仁親王(後の高倉天皇)が産まれており、1166年に清盛はその後ろ盾となって憲仁親王を皇太子にする事に成功します。
この時期の清盛と後白河の関係は非常に良好なものでした。ちなみに68年には清盛が出家。翌年には後白河が出家し法皇となりました。

なぜ後白河法皇は清盛によって幽閉されたのか?


しかし、比叡山延暦寺に対する姿勢(後白河法皇は延暦寺を抑えようとしたが、清盛は擁護していた)や、清盛の娘・徳子と高倉天皇の婚姻問題などを巡り、2人の関係は徐々に歪みが生まれてきます。
もっともこの時期の後白河は、清盛が行う日宋貿易をバックアップしたり、1174年には清盛と結びつきが強い厳島神社を訪れるなど、ある程度清盛に対しては友好的でした。

しかし1176年、滋子が亡くなります。この時期から2人の対立は少しずつ表になり、翌年には「鹿ヶ谷の陰謀」という大事件が勃発します。これは後白河法皇の側近の藤原成親(なりちか)らが企てたもので、激怒した清盛は陰謀に参加した法皇の側近を処罰します。高倉天皇が17歳になり新政を行える年齢も近づいた事もあり、後白河の権力は低下していきます。

事件はまだあります。清盛の娘である平盛子は関白・近衛基実の妻でしたが、基実とは死別してしまいます。この際に盛子は、夫の継子である近衛基通の養育のために、摂関家の荘園量の大部分を相続しました。ですが、盛子が1179年6月に24歳で亡くなると、後白河法皇は彼女の所領を取り上げてしまったのです。
この時法皇と協調していたのが関白・松殿基房でした。基房はこの年の10月、清盛がバックアップする近衛基通を差し置いて自分の息子である松殿師家を中納言に任命します。この年の7月には清盛の長男である平重盛が亡くなりますが、法皇は盛子の時と同様、重盛の所領を没収しており、清盛と後白河の溝はどんどん深まっていくのです。

こうした点が引き金となり、清盛は11月ついに「治承3年の政変」と呼ばれるクーデターを起こし、後白河法皇を幽閉、松殿基房ら反平家の貴族の位を没収します。翌年には高倉天皇が上皇となり、わずか3歳の安徳天皇が即位。安徳天皇の母親は清盛の娘・徳子であり、清盛は天皇のおじいちゃんという存在にまで登りつめるのです。

後白河法皇が幽閉された場所「鳥羽殿」とは?


一方の後白河法皇ですが、どこに幽閉されたのでしょうか?

法皇が幽閉されたのは「鳥羽殿(とばどの)」という場所で、「鳥羽離宮(とばりきゅう)」とも呼ばれています。
「鳥羽」という名称ですが、現在の京都駅の南側に位置している「上鳥羽」「下鳥羽」という地名にその名を残しています。


※引用:Google マップ

当時のこの地域は、貴族が狩りや遊びを行う場所として知られており、彼らの別荘も多く存在していました。鳥羽殿はもともと院政を始めた白河上皇(後白河法皇の曽祖父)の側近である藤原季綱(ふじわら の すえつな)の邸宅でしたが、季綱が白河上皇に屋敷を献上した事で、白河上皇の所有となりました。白河上皇はこの邸宅を大幅に拡張し、鳥羽殿は院政の中心地となっていったのです。

幽閉後の後白河法皇の様子ですが、平家による監視は厳しく、側近や女房の出入りが禁じられた他、翌年の正月には病気になる等の生活を送っていたようです。しかし5月に法皇の第3子である以仁王が挙兵して都に武士が集まると、警備の都合上法皇は鳥羽殿から別の屋敷(どこに移されたかは資料により諸説あります)に移され、その後は平家の拠点である福原へと強制的に連れていかれました。
法皇が平家の影響下から離れるには、1181年2月に清盛が亡くなるのを待つ事となります。

ちなみに鳥羽殿はその後、南北朝時代の争いにより荒廃したという記録が残されています。

まとめ

平清盛と後白河法皇の関係についてご紹介しました。

通して見ると、清盛と法皇は付かず離れずの関係というのがしっくりきます。日宋貿易の推進などで協調する面はありますが、基本的には互いが互いを利用し合うといった間柄と言えそうです。
清盛死後に木曽義仲が京都へ攻め上り平家が都落ちをすると、法皇は比叡山に逃亡して義仲に平家討伐を命じます。こうして平家は「賊軍」となり、滅亡への道を進んでいくのです。

なお、以下の記事ではその後、後白河法皇が源頼朝とどのように関係を築いていったのかについてご紹介します。宜しければあわせてご覧になってみてください。
※参照:後白河法皇と源頼朝の関係をわかりやすく解説