「13人の合議制」の一員として名が挙がる二階堂行政ですが、どのような人物だったのかご存知ですか?
あまり目立たない印象もありますが、その子孫は今なお日本各地で続いています。
今回は、二階堂行政がどんな人物だったのかを、その子孫や「二階堂」という名字の由来も含め解説します。
二階堂行政ってどんな人?鎌倉幕府では何してたの?
まずは二階堂行政がどのような人物だったのかについて見ていきましょう。
二階堂行政は、平安末期から鎌倉時代初期に活躍した鎌倉幕府の文官です。二階堂行政の家系は、藤原南家の家につながる名家であり、父は藤原南家の分家であった工藤氏出身の工藤行遠であったと伝わっています。
二階堂行政の生没年はわかっていないのですが、当初は「工藤行政」と名乗っていました。行政の母は熱田大宮司を務めた藤原季範の妹です。二階堂行政が鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えるようになったのは、藤原季範の娘が源頼朝の母であったという縁からだと考えられています。源頼朝の母親やその生い立ちについては以下の記事で解説しているので、詳しくは以下をご覧ください。
※参照:源頼朝の生い立ちや平治の乱における動向について。伊豆では何してたの?
さて、頼朝に仕えるようになった二階堂行政は、主に事務方の仕事を任されます。1184年に公文所が置かれた際は「寄人」という役職につき、中原親能や足立遠元らと別当である大江広元を支えたと言われています。
※参照:大江広元の子孫について解説。毛利元就とはどう繋がってるの?
1189年の奥州藤原氏の征討では、行政は幕府の軍に従軍します。鎌倉幕府の公式歴史書である吾妻鏡の記述によると、幕府軍の宇佐美実政が藤原泰衡の郎党であった由利八郎を生け捕りにした際の処罰の裁定を行うと共に、奥州合戦の一連の経緯をまとめた報告書を朝廷に報告するなど、主に鎌倉幕府の事務処理の責任者としての地位を確立していきます。
これ以外にも、行政はしばしば幕府の工事や儀式、さらには訴訟などの責任者として頼朝の命に従い、地道に功績をあげていきました。行政が寄人を務めた公文所は後に「政所」と改称され、そして1193年に行政は政所別当、すなわち事務方の最高責任者にまで出世を果たしました。
頼朝死後、行政は頼家を補佐する「13人の合議制」に参加しています。しかし次の実朝が将軍になった時期には活動の形跡が見られなくなり、この時期に亡くなったと言われています。
文官としての側面が多かった二階堂行政ですが、1201年から1204年にかけて軍事拠点として稲葉山に砦を築く工事を担当します。この砦は、のちに斎藤道三や織田信長の居城となる岐阜城となりました。
二階堂行政の子孫は福島県や鹿児島県にいた!?
そんな二階堂行政ですが、子孫は今でも続いているのでしょうか?
二階堂行政には行村、行光という2人の男子がおり、その子孫は代々鎌倉幕府に仕えています。鎌倉13人衆の構成員であった二階堂氏は北条氏との折り合いもよく、長男である二階堂行村は京都周辺の警護や訴訟などを扱う検非違使の地位に就きその地位を代々世襲していきます。
さらに弟である二階堂行光は、2代執権である北条義時を支え政所執事に就任します。政所執事は政所の次席ともいうべき権力があり、この地位を行光の流れを受け継ぐ二階堂氏の子孫たちが受け継いでいきます。鎌倉13人衆の梶原氏や和田氏、三浦氏や安達氏など多くの有力御家人が続々と排斥されるなか、二階堂氏は長年にわたり鎌倉幕府を支え、後の二階堂氏の発展の基礎を作っていきます。
二階堂行村、行光の子孫たちは鎌倉幕府の重臣として勢力を徐々に拡大し、全国各地にその所領を広げて勢力を拡大させていきます。戦国時代に現在の福島県を拠点とした二階堂氏(須賀川二階堂氏)は行光の子孫にあたると言われており、ゲーム「信長の野望」の特異な顔グラフィックで有名な二階堂盛義も、この須賀川二階堂氏に連なる人物だと言われています。
また、鎌倉の有力御家人で霜月騒動で没落した二階堂行景という人物は「隠岐流二階堂氏」と呼ばれており、その元を辿ると行村に行き着きます。行景の子である二階堂泰行は所領のあった薩摩国阿多郡に土着。その後、薩摩藩の島津家の家臣となり「薩摩二階堂氏」と呼ばれる事となりました。その末裔としては自由民主党幹事長を務めた二階堂進氏や、その孫娘で朝日新聞記者の二階堂友紀氏が挙げられます。
行政の子孫は全国に広がっていったと言えそうですね。
最後に、「二階堂」という氏(名字)の由来についても見ていきましょう。
「二階堂」という名字の由来と永福寺について
「二階堂」という名字の由来は、行政が1192年に建立した永福寺(ようふくじ)にありました。
永福寺には二階建てのお堂があり、そこから永福寺の周辺の地名が「二階堂」となり、そこに当時「工藤行政」と名乗ってた行政が屋敷を建てた事から、「二階堂」氏が誕生したと言われています。
当時、二階建てのお堂は珍しかったと言われてますが、奥州藤原氏が建立した中尊寺金色堂の付近には二階建てのお堂がありました。行政は1189年、奥州合戦に従軍してますがこのお堂を見て感銘を受けたと言われています、
また、頼朝はこの戦いで犠牲となった人々の御霊を慰めたいと思い、同年には永福寺の建立を決意。その造影責任者に任命されたのが行政でした。そしてその3年後、永福寺の本堂が完成します。
永福寺は1405年には火災により焼けてしまい、今では永福寺跡(ようふくじあと)として国の史跡に指定されています。
まとめ
二階堂行政がどんな人物だったのかを、子孫や「二階堂」という名字の由来も含めご紹介しました。
行政の家系は母方を通して頼朝と繋がりがあり、鎌倉幕府の成立にも貢献。主に政務面で幕府を支えます。
政の生没年は不明ですが、その子孫は日本各地で見られ、現在も「二階堂」姓の末裔の方はたくさんいらっしゃるようです。