鎌倉時代初期の繁栄を支えた名武将、和田義盛

彼の功績と言えば、初代侍所別当に任命されたり、壇ノ浦の戦いで源氏と共に平家を滅ぼしたことなどが有名です。
その後、自身の名を持つ和田合戦で滅んだ彼ですが、一体どこを出身とし、どんな人物だったのでしょうか。

本記事では、そんな和田義盛のルーツや人物像について説明します。

和田義盛は感情型?一体どのような人物だったのか。

平安末期~鎌倉初期の武将として、源頼朝に尽くした功臣である和田義盛
そんな彼は純武人型のタイプだったといわれています。

人柄は単純で誠実。感情型の人間で、壇ノ浦の戦いでは先陣を切って敵を挑発したり、勝機がなければ真っ先に引き上げようとしたり、良くも悪くも自分の意のままに動く武将でした。

平家との戦いに敗れた直後の頼朝に向かって、「戦いに勝った暁には侍所の別当に任命してほしい」と半ば場違いなことを頼んでしまうほどだったといいます。
しかし、弓の名手で戦いに長けており、頼朝からの信頼も絶大だったことも事実です。
宣言通り、1180年には念願の侍所別当に、1199年には十三人の合議制の一人として、鎌倉幕府内にて権力を誇りました。
その最後においても、四男で目をかけていた義直が討たれた後、「もう戦う意味もない」と号泣したと言われています。

また、一説には木曽義仲との戦いの後、義仲の愛妾である巴御前の強さを気に入り、「あんな強い女性に子供を産ませたい」と述べたとされています。この逸話は『源平盛衰記』という軍記物語に書かれた後世の創作なのですが、義盛の人柄を伝えるわかりやすいエピソードだと感じます。

『源平盛衰記』によると、義盛の三男である朝比奈義秀は巴御前との間の子供とされています。朝比奈義秀は和田合戦で最も活躍した武将として知られており、その子孫として戦国大名の今川家に使えた朝比奈泰朝が挙げられるとする説もあります。

※参照:和田義盛に子孫はいる?佐久間氏や朝比奈氏、中条氏との関係も解説

ルーツは武家の三浦氏。和田義盛の出身について。

和田義盛の出身は、相模国三浦郡和田という地域です。
源義朝の代から源氏に仕え、後にその一族の名を幕府に轟かせる礎となった三浦義明。その息子・杉本義宗の長子として義盛は生まれました。

義盛が三浦姓を名乗れなかった理由は主に2つです。
1つは、父の義宗が祖父・三浦義明の相続をする前に戦死したこと。
2つは、母の身分が低かったこと。

そのため、自らの出身地の地名である和田を姓としたようです。
三浦氏を継承したのは三浦義明の次男である義澄で、義澄の後を継いだのが後の和田合戦で北条義時に味方した三浦義村となります。

※参照:三浦義村の父親や子供の泰村について。子孫はいるの?

一方の義盛ですが、姓が和田ではあるものの、三浦氏の一族であることに変わりはありません。
祖父である義明や叔父の三浦義澄とともに、平家討伐に向けて源氏軍として戦場で功績をあげました。

このように和田義盛のルーツは、鎌倉幕府において大きな権力となった三浦氏と出身を同じくし、重要人物となる背景部分をしっかりと持ち合わせていたといえるでしょう。

初代侍所別当に任命。和田義盛が行ったこととは。

三浦氏と共に源頼朝の信頼を固めていった義盛は、1180年には宣言通り侍所の初代別当として任命されました。

侍所とは、幕府における警察機能や治安維持のほか、最も重要な役割として御家人の統制や指揮をする機関です。
つまりは現在の人事管理のようなシステムを果たしていました。
別当とは、そんな侍所の長官で、最高責任者のことをいいます。
そして、新たな幕府を開く、つまり平家を滅ぼすためには近郊の武士たちの統率が必要です。
義盛は軍目付として戦場における将兵たちの監視をしたり、各地の御家人を招集したりと、鎌倉幕府の設立に向けて源氏を補佐していったのです。

鎌倉幕府の役職としては、他には1184年に設置された公文書問註所、1183〜85年に設置された守護・地頭が有名ですが、侍所が置かれたのは1180年と、これらの役職の前にあたります。それだけ侍所、そして義盛が頼朝から重視されていたと言えるでしょう。

1192年に幕府が開かれると、別当は梶原景時に代わられます。しかし義盛はこの12年間における功績から、御家人たちの中で大きな権力を持つこととなりました。

まとめ

和田義盛がどのような人物だったのかを、出身地や侍所別当としての事績を踏まえご紹介しました。
今回の内容をまとめると、以下のようになります。

熱血漢で感情的だが、それゆえ頼朝にアピールするのが上手な人物だった。
源氏の勝利の大きな後ろ盾となる、三浦氏をルーツにもっていた。
侍所の初代別当として、鎌倉幕府の御家人に大きな権力をふるった。

大きな功績をあげた和田義盛は、北条氏との内部抗争である和田合戦において命を落とし、その生涯に幕を閉じました。
しかし鎌倉幕府の設立や源頼朝の政治において、彼の活躍はなくてはならないものだったといえるでしょう。