鎌倉幕府の有力御家人として知られる三浦義村

義村を語る際は、三浦一族の台頭が彼の父・義澄にはじまり、息子・泰村に終わったことを忘れてはなりません。

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本記事では、義村の父親・三浦義澄や子供の三浦泰村についてご紹介します。

義村の子孫や三浦一族の末裔についても見ていきましょう!

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父・三浦義澄|頼朝から絶大な信頼、鎌倉幕府の立役者

三浦義村の父親、三浦義澄は平安時代末期から源氏に仕え、1159年の平治の乱でも源義朝らと共に戦った武将です。

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その際は平家に敗れており、頼朝が1180年に挙兵した際(石橋山の戦い)も天候の悪さにより参加出来ませんでしたが、後の一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦には従軍しており、鎌倉幕府の成立に尽力しています。

※参照:源頼朝の生い立ちや平治の乱における動向について。伊豆では何してたの?

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その後、義澄は1192年に鶴岡八幡宮で行われた、頼朝の征夷大将軍への任命書を勅使から受け取る役目に抜擢されています。

そのため、源氏からも大変信頼されていた家臣だったと言えるでしょう。

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頼朝の死後は、鎌倉幕府の集団指導体制である「十三人の合議制」の一員として、幕府内で大きな権力を誇るようになります。

残念ながら義澄はその翌年に病死してしまいますが、これらのことから三浦家に対する源氏の信頼を確固たるものにしたのはこの義澄ともいえるのではないでしょうか。

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三浦義村の子供を一覧でまとめ。後継者の三浦泰村とは?

三浦義村には少なくとも14人の子供がいたと言われています。

義村の子供たちを表でまとめてみました。

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間柄 氏名 備考
長男 朝村 宝治合戦の前に亡くなったと考えられる。
子孫は今川家に仕え、後に江戸幕府旗本に。
次男 泰村 義村没後の三浦家の家督を継承。
北条氏を上回る権勢を誇るが、宝治合戦で自刃。
三男 長村 詳細は不明。宝治合戦時には亡くなった可能性あり。
四男 光村 若い頃は鶴岡八幡宮で公卿の門弟をしていた。
その後九条頼経に近習として仕える。宝治合戦で自害。
五男 重村 詳細は不明。宝治合戦で亡くなったと思われる。
六男 家村 宝治合戦を生き延び、子孫の三浦正次の系統が美作勝山藩主に。
七男 資村 詳細は不明。宝治合戦で亡くなったと思われる。
八男 胤村 宝治合戦には奥州に滞在。助命され後に親鸞の弟子になる。
九男 重時 詳細は不明。
十男 良賢 宝治合戦後に北条側に召し出されたとされる。
矢部禅尼 北条泰時の正室だが離縁。4代目執権経時、5代目時頼は孫。
後に佐原盛連と再婚。相模三浦氏や戦国大名の蘆名氏は子孫。
土岐光定室 詳細は不明。
毛利季光室 夫および4人の息子と宝治合戦で亡くなる。毛利元就は末裔
千葉秀胤室 夫の秀胤は宝治合戦後に追悼され一族で自害している。

義村の子供たちの中で最も著名なのは、その後継者として三浦一族を継承した次男の三浦泰村でしょう。

泰村は武術や弓に優れており、父と共に1221年の承久の乱などに参戦し活躍。

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当時の執権、北条泰時の「泰」の一字をもらって「泰村」と名乗ったと言われています。

その後、泰村は三浦一族の権力を高めるため、4代将軍の九条頼経との関係を深めます。

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また弟の光村は5代将軍の九条頼嗣と親密な仲となったことで、幕府との絆を強固なものとしました。

その力は時の北条氏に次ぐ権力となりつつあったため、当の北条氏から危険視をされてしまいます。

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泰村は双方の権力を維持するべく、5代目の執権・北条時頼と和解の道を探ります。

時頼も泰村と事を構えるつもりはなかったようですが、1247年にそれをよく思わなかった安達景盛が仕掛けた宝治合戦が勃発。

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追い詰められた泰村は、頼朝の墓がある法華堂で一族と共に自害し、その人生に幕を閉じました。

※参照:宮騒動、宝治合戦、霜月騒動の違いをわかりやすく解説!

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三浦義村の子孫について解説。三浦一族の末裔はいるの?

宝治合戦で一族の多くが亡くなった三浦一族ですが、その末裔は日本各地に散って生き延びています。

具体的には長男の朝村、次男で後継者の泰村、六男の家村、娘である矢部禅尼と毛利季光室の系統が、義村の血脈を伝えたと言えます。

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ここからは義村の子孫について見ていきましょう。

長男・三浦朝村の子孫:今川仕えた駿河三浦氏は江戸幕府旗本に

朝村は義村の長男として産まれましたが、宝治合戦の死者にその名前はなく、合戦前には亡くなっていたと思われます。

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朝村には氏村、朝氏、員村という子供がおり、彼らは宝治合戦で一族と共に自害したと言われてます。

一方、朝村には朝信という子供が別におり、この朝信の系統は駿河に居住し、後に今川家に仕えた駿河三浦氏になったと言われています。

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駿河三浦氏は今川家中では筆頭家老として厚遇されており、その滅亡後は武田や北条家に仕えながら、最終的には江戸幕府旗本として三浦朝村の系統を繋いでいったものと思われます。

次男・三浦泰村の子孫:三浦景泰の系統が沼田氏を名乗る

後継者として三浦一族の当主となった泰村は、宝治合戦で妻子や一族郎党と共に果てたと言われています。

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しかし泰村の次男・三浦景泰は生き残ったと言われており、景泰の家系は上野国(現在の群馬県)を領した沼田氏となった説があります。

沼田氏は戦国時代、沼田城を領有し、上杉氏と後北条氏の戦いの中で一族敵味方に分かれ戦う事となります。

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しかし1581年、沼田氏の当主である景義は武田の家臣・真田昌幸によって忙殺され、これによって沼田氏は滅亡しました。

六男・三浦家村の子孫:三浦正次が徳川家光の若年寄から大名に

家村は宝治合戦で亡くなり、その首級が首実検に出されたとする説がありますが、損傷激しく家村のものか判別できなかったそうです。

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一方で家村は宝治合戦を生き延び、その後は三河国(現在の愛知県東部)に居住したとも言われています。

家村の子孫としては、徳川家光に小姓として仕えた三浦正次という人物が知られており、後に大名に取り立てられています。

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正次の子孫は美作国(現在の岡山県東北部)の勝山藩主となり、最後の藩主である三浦顕次は明治時代以後に子爵に叙せられています。

娘・矢部禅尼の子孫;相模三浦氏や蘆名氏、正木氏を輩出

矢部禅尼は北条泰時の妻でしたが離縁しており、その後は三浦一族の佐原盛連の元に嫁いでいます。

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盛連は宝治合戦では北条方で戦っており、その子である盛時は相模三浦氏として三浦家を再興しました。

相模三浦氏は室町時代になると扇谷上杉家から養子をもらい、ここで矢部禅尼の系統は断絶。

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その後戦国時代初期に北条早雲によって滅ぼされています。

相模三浦氏から派生した家系としては、安房里見氏の家臣となった正木氏が知られており、後に紀州徳川家の家老となった三浦為春や、その妹で家康の側室になったお万の方が知られています。

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お万の方は家康との間に初代紀州藩主となった頼宣、初代水戸藩主になった頼房の2人を産んでいます。

また、矢部禅尼と盛連の子供としては、会津地方を治めた蘆名氏の祖である光盛も有名です。

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娘・毛利季光室の子孫:戦国大名・毛利元就から長州藩主へ

他にも、三浦義村の娘の一人は上述した通り毛利季光という武将に嫁いでいます。

この武将は鎌倉幕府ナンバー2とも称される大江広元の四男であり、その子孫としては戦国時代に活躍した毛利元就などが挙げられます。

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女系を踏まえるのであれば、毛利元就は三浦義村の子孫、と言っても間違いではないでしょう。

※参照:大江広元の子孫について解説。毛利元就とはどう繋がってるの?

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まとめ

義村を中心とする三浦一族3代の流れをまとめると以下のようになります。

義澄 源頼朝の家臣として鎌倉幕府の成立に貢献。「十三人の合議制」の一員にも選ばれる。
義村 三浦氏最盛期の当主。鎌倉幕府初期を生き延び、執権政治の樹立に大きく貢献した。
泰村 将軍に接近して権勢を強めるも、北条氏との確執で宝治合戦が勃発。三浦氏は滅亡した。

宝治合戦後も三浦一族は日本各地で活躍しており、その末裔として江戸幕府の世で生き抜いた者も少なくありません。

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三浦一族が歴史の表舞台で華々しく活躍する事はありませんでしたが、義村の子孫はその後もしぶとく生き抜いたと言えるでしょう。

また、以下の記事では三浦一族の一員でもある和田義盛の子孫について解説しています。

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気になったらあわせて確認してみてください。

※参照:和田義盛に子孫はいる?佐久間氏や朝比奈氏、中条氏との関係も解説

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