鎌倉幕府の創設者として知られる源頼朝ですが、1180年に挙兵する前は一体何をしていたのでしょうか。
この記事では、頼朝の生い立ちや平治の乱における動向についてご紹介します。
また、伊豆時代に頼朝が何をしていたのか?についても見ていきましょう!

源頼朝の生い立ちについてわかりやすく解説!

源頼朝は1147年、源氏の棟梁である源義朝(よしとも)と熱田神宮の大宮司・藤原季範(すえのり)娘である由良御前の子供として生まれました。乳母として比企尼、寒川尼、山内尼の3名の女性が仕えた事がわかっており、特に比企尼は頼朝が伊豆に流刑になった後、20年近く彼の援助をした事で知られています。

義朝にとって、頼朝は三男でしたがこの乳母の多さから見て父親からとても大事にされていたと言えますね。それものはずで、義朝は頼朝を自身の後継者として考えていたようです。兄2人を差し置いて官位昇進も早かったと言われています。

なぜ頼朝が後継者とされたのか?ですが、これに関しては母親の由良御前の実家が熱田神宮の宮司家という、高い家柄の出身という事情があったと言われています。頼朝の出生地も熱田神宮がある尾張国(現在の愛知県)にあった母方の実家である藤原季範の屋敷であり、彼の生い立ちを考える上で熱田神宮の存在は非常に重要だと言えます。

余談ですが、頼朝が産まれた藤原季範の屋敷は、現在は誓願寺(せいがんじ)という浄土宗の寺院になっています。昔は「源頼朝公産湯ノ井戸」という井戸があったそうですが太平洋戦争の空襲で消失してしまい、現在は頼朝の生誕を表した石碑が当時の歴史を伝えています。

平治の乱における源頼朝の動向について

平治の乱と言えば頼朝の父・義朝が命を落とした戦いとして有名ですが、頼朝にとっては初陣でもありました。
頼朝は平治の乱やその前後で何をしていたのでしょうか?

1159年の12月、義朝は挙兵し平治の乱を起こします。当時、政治の実権を握っていた信西の自害を確認した後に義朝は播磨守に任じられますが、この時頼朝は右兵衛権佐という官職に任じられています。当時、右兵衛権佐は公卿への出世コースでもある役職であり、頼朝の存在が義朝にとっていかに重要であったかを示すエピソードとなっています。

しかし、最終的には義朝は六波羅の近くで平清盛と戦い、敗れ落ち延びますが殺されてしまいます。義朝の傍にいた頼朝も逃亡しますが近江国で平氏一族である平宗清に捕まり、京都の六波羅へと送られ処刑されかけます。しかし、平清盛の継母である池禅尼が哀れんで清盛に命乞いをした結果、伊豆に配流という形になり幸いにも一命を取り留める事が出来ました。

その背景には、母の由良御前の実家である熱田神宮家の存在があったようです。熱田神宮家の人々の中には後白河法皇や法皇の姉である統子内親王(むねこないしんのう)に仕える者が少なくなく、この2人が手を回して頼朝の助命に一役買った説も残されています。

源頼朝は伊豆で何をしていたのか?

1160年の3月に伊豆に流された頼朝。その後1180年に挙兵するまでの20年間をこの地で過ごしていた事になります。
当時の頼朝は一体何をして過ごしていたのでしょうか?

実はこの時期の頼朝の動向を記した史料はそこまで多くありません。当時の頼朝が住んでいた場所としては現在の静岡県伊豆の国市にある蛭ヶ小島(ひるがこじま)という場所が有名ですが、実は史料には頼朝の居住地に関する記載はなく、その面影を伝える史跡もありません。『吾妻鏡』という歴史書には頼朝の流刑地として「蛭島」という記載があり、この点からヒントを得て後世の人が創作した可能性も否定できないのが実情です。

鎌倉時代に作られた『曽我物語』という伝記物語には、1167年頃に頼朝が天野遠景や大庭景義、土肥実平らと人物と狩りや相撲を行っていた記載があります。『曽我物語』はあくまで物語ではありますが、当時21歳だった頼朝が同世代の若者と狩りや相撲を楽しんでいても不思議はない気がします。
また『吾妻鏡』には、当時の頼朝が武芸の一環である巻狩りに参加していた記録が残されています。巻狩りとは中世に遊興や神事祭礼、軍事訓練といった目的で行われた狩りで、鹿やイノシシなどが棲息する狩場を大人数で四方から取り込み、囲い縮めながら獲物を追い詰めて射止めるものでした。頼朝は狩りが好きだったのでしょうね。

他には地元の霊山である箱根権現や走湯権現に深く帰依し、父・義朝をはじめとする源氏一門の弔いをしていたと言われています。

一方、当時の頼朝は平家の監視を受ける存在でもありました。頼朝を監視していた人物としては、最初の妻とされる八重姫の父親である伊東祐親や、後に妻となる北条政子の父親である時政らが挙げられます。こうした監視の目を受けながら、頼朝は自分の乳母の妹の子供で、後に「13人」として鎌倉幕府内で重きをなす三善康信(みよし の やすのぶ)から、京都にいる平家の情報を得ていた記録も残されています。捲土重来を期す気持ちはあったのでしょうね。

※参照:三善康信ってどんな人物?問註所執事としての業績や子孫について!

まとめ

挙兵前の源頼朝の動向」というテーマで、頼朝の生い立ちや平治の乱での動向、伊豆時代に何をしていたのか?について解説しました。
頼朝は1147年に産まれ1199年に53歳で亡くなっており、挙兵時の年齢は34歳と、意外と遅咲きとも言える人物なのです。
そんな頼朝が若い頃どのような環境で育ったのか?については史料もそこまで多くないのが実情です。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」によって頼朝に対する注目度は高まれば、新しい研究結果も出てくるかもしれませんね。