歴史の授業や幕末の大河ドラマ等でよく出てくる「将軍後見職」ですが、どのような役職だったのかご存知ですか?
一橋慶喜(徳川慶喜)が担った事で知られるこの役職について、簡単にご紹介します。

また、実は慶喜より先に将軍後見職を務めた人物がいたのです。
この点も同時に見ていきましょう。

将軍後見職ってどんな役職?設置された背景は?

将軍後見職とは幕末に設置された役職のことで、1862年に一橋慶喜(徳川慶喜)が就任した事で知られています。
将軍が年少だった場合、そのバックアップを務める役職ですね。
イメージとしては、平安時代に幼い天皇をサポートした「摂政」という役職と近いでしょうか。

当時(1862年)の将軍は14代の徳川家茂。年齢は16歳ほどでした。
幼少とまでは言えないものの、一人で政務を務めるにはまだ不安が残る年代ですね。
※参照:徳川家茂の父親と母親はどんな人?子供がいるかも調べてみた!

将軍後見職が設置された背景として、薩摩藩の島津久光の動きは必ず抑える必要があります。
黒船来航をきっかけに幕政改革が叫ばれるようになりますが、その中心人物として挙げられるのが薩摩藩主で久光の兄の島津斉彬(なりあきら)でした。しかし斉彬は志半ばで亡くなり、改革を主張する人々は時の大老・井伊直弼が行った安政の大獄により、その多くが処罰されてしまいます。慶喜も謹慎処分を受けています。

桜田門外の変によって井伊直弼が亡くなった後、久光は兄の志を継ぎ上洛。
親交がある公家に働きかけ、幕政改革を行います。
この時久光は、安政の大獄によって処罰された人々(慶喜や松平春嶽など)の赦免や政治の場への復帰を働きかけたのですが、その際、慶喜を将軍後見職に任命するよう提案します。慶喜もこれを受け、幕政改革へ乗り出していく事になるのです。

将軍後見職として一橋慶喜が担った役割とは?

1862年6月、将軍後見職に就任した慶喜は久光に押されつつ「文久の改革」と呼ばれる様々な改革を行いました。
具体的には以下の取り組みが挙げられます。

参勤交代を隔年から3年に1度に改め、大名の負担軽減をはかる。
洋楽の研究を進め、榎本武揚や西周をオランダへ留学させる。
幕府陸軍の設置や西洋式の兵制を導入するなどの軍政改革を行う。

その後、慶喜と久光は参与会議のメンバーとして諸政策を進めますが、横浜港の鎖港問題で対立します。久光ら参与会議のメンバーは横浜鎖港に断固反対しますが、久光の勢力伸長を警戒し、また孝明天皇から攘夷の実行を迫られていた事情を抱えていた慶喜は鎖港を推し進めようとします。

こうした背景もあり参与会議は崩壊。久光は幕府から距離を置き始め、統幕へと傾斜していきます。一方の慶喜も1864年の3月に将軍後見職を辞任。朝廷から禁裏御守衛総督という新しい役職に任命され、江戸の幕府とは一定の距離を取りながら、会津の松平容保や桑名藩の松平定敬と共に「一会桑政権(いっかいそうせいけん)」と呼ばれる独自の動きを見せ始める事となります。

【徳川慶頼とは】慶喜より前に将軍後見職に就任した人物

将軍後見職といえば上記の慶喜の例があまりにも有名ですが、実は慶喜より先に将軍後見職に就任した人物がいたのです。
14代将軍・徳川家茂を支えた徳川慶頼(とくがわ よしより)です。御三卿の一つ・田安家の当主でもあるため田安慶頼とも呼ばれます。

1858年、家茂が14代将軍に就任した際、過去に幼少の将軍を補佐した保科正之や松平定信の事例を踏まえて徳川慶頼は将軍後見職に就任します。しかし、当時の将軍後見職は正式な役職ではなく、実権も大老・井伊直弼に握られていたため慶頼が力を発揮する場面はありませんでした。
文久の改革で政事総裁職に就任する松平春嶽は「慶頼は何も仕事してなくて、井伊直弼の子分みたいなもんだよね」と述べたと言われています。
※参照:松平春嶽の生まれや「春嶽」の号の意味。明治政府では何してたの?

1862年、文久の改革がスタートすると慶頼は将軍後見職を解任されます。その後、慶頼は江戸城無血開城に協力するなど、徳川家の存続に尽力しました。また慶頼は慶喜の後に徳川宗家を相続した田安亀之助(徳川家達)の父親としても知られています。

まとめ

将軍後見職がどのような役職だったのかを簡単にご紹介しました。
一橋慶喜が担った役割や、慶喜より先に将軍後見職を務めた徳川慶頼についても触れています。

慶喜も慶頼も、改革の渦の中で人生を翻弄されたようにも感じます。
当時の国難を解決すべく奔走した人々の大変さを、将軍後見職という役職は示している気がしますね。

なお、以下の記事では将軍後見職と同じ「幕末の三要職」とされる政事総裁職、京都守護職との比較も行っています。あわせてご覧になってみてくださいね。
※参照:将軍後見職、政事総裁職、京都守護職の違いをわかりやすく解説!