以仁王の令旨に応じて平家を倒すべく挙兵した諸国の源氏に先駆けて京都に入った木曽義仲
当初は後白河法皇からは平家を追放してくれた人物として歓迎を受けていましたが、やがて2人の関係性は悪化し、最終的に決定的な対立関係が起きてしまいます。

今回は木曽義仲と後白河法皇の関係について、「法住寺合戦」も交えご紹介します。

義仲入京における後白河法皇の対応は?

木曽義仲と後白河法皇の関係は、1183年の義仲入京の前後からスタートします。

1180年、以仁王の令旨を源行家が全国の源氏に伝えていきます。やがて行家は木曽にいる義仲にも平氏打倒の挙兵を促す令旨を届けます。義仲はこの令旨を根拠に挙兵し、平家や頼朝の勢力の及んでいない北陸地方を中心に次第に勢力を拡大していきます。

その際、義仲が自身の正当性を担保するために擁立したのが、以仁王の王子である北陸宮(ほくろくのみや)でした。北陸宮は以仁王の挙兵後、戦乱の京都から北陸へ避難していたのです。義仲は北陸宮を越中国(現在の富山県)で保護。勢い付く義仲は倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を撃破。その勢いを維持したまま1183年7月に義仲軍は京都に入り、平家を都から追い出してしまいます。

木曽義仲は高位高官を一門で独占した平家を追い出した軍として後白河法皇からも歓迎され、『平家物語』によると義仲は旭将軍とまで呼ばれるようになったとされています。

「養和の飢饉」と義仲軍による食料略奪に法皇の不信感が

後白河法皇にとって、入京した義仲に最も期待したのは京都の治安の安定でした。

当時の京都は、1181年に始まった「養和の飢饉」により深刻な食糧不足が発生していました。この飢饉は多くの犠牲者を出し、京都の治安は極度に不安定な状況だったのです。この状況を平家に代わって京都に入京した木曽義仲が、安定的な状況にさせてくれるのではという期待感があったといわれています。

しかし、もともと義仲の軍は戦いの中で勝利を重ねながら、自然拡大してきたものであり、先祖代々の主従関係が構築された安定的なものではなかったため、軍の意思統一を徹底させる事はできない状況にありました。このため京都に入ってきた義仲軍は、ただでさえ養和の飢饉で不足しがちな食糧事情の京都で食料を略奪するなど、後白河法皇からすると期待外れな不愉快な存在となっていきます。

また平家が京都から去る時、安徳天皇と共に京都を立ち去ったため、京都に帝がいない状況となってしまいました。このため後継の帝を決める皇位継承に際して、法皇と義仲は意見を異にしてしまいます。
後白河法皇は、四宮(のちの後鳥羽天皇)の即位を希望したのに対して、木曽義仲は自身が保護していた北陸宮の即位を希望します。結果としては四宮が即位しますが、こうした武士が皇位継承に意見する異例の事態に後白河法皇やその側近たちは、義仲に不信感を抱くようになります。

「水島の戦い」と、法皇の頼朝への接近に義仲は…?

やがて後白河法皇との関係性が次第に悪化している事に危機感を感じた義仲は、1183年9月、法皇の出陣命令に従い平家追討に京から出陣していきます。入京からわずか2ヶ月後の時期でした。
ここで勝利して信頼を勝ち取る事が義仲には必要だったのですが、11月、平家軍に水島の戦いで敗北します。平家は伝統的に海上での戦いは得意であった事もあり、義仲の軍に勝利します。

平家に敗北し木曽義仲は、次第に後白河法皇にとって信頼できる存在ではなくなり始めてきます。やがて義仲が京都を留守にしていた間に、鎌倉でさらなる勢力拡大を目指していた源頼朝が、平家に没収されていた貴族や寺社などの領地を元の所有者への返還を行うという後白河法皇を喜ばせる動きに出ます。これを機に、法皇は義仲から頼朝へ近づき始めます。

同年10月、後白河法皇は寿永二年十月宣旨を頼朝に出し、東海、東山地方の頼朝への年貢の徴収権、そして朝廷への献上、そして同地域の支配権などを頼朝に認める事とします。自分の意図通り動かず皇位継承にも意見する義仲ではなく、今後は頼朝に期待をかけようと法皇は態度を改めていきます。
その後の後白河法皇と源頼朝の関係は以下の記事をご覧ください。

※参照:後白河法皇と源頼朝の関係をわかりやすく解説

義仲と法皇が激突! 法住寺合戦ってどんな戦い?

木曽義仲と後白河法皇の関係は、1184年1月におこった法住寺合戦によって決裂します。

義仲が京都を留守にしていた間に、寿永二年十月宣旨に基づき源義経、源範頼などが頼朝の名代として朝廷に食料を収める名目で上洛してくるという情報がその耳元に入ります。これに驚いた義仲は、水島での戦いでの敗北後にもかかわらず京都に戻ります。

義仲としては、「これ以上頼朝の勢力が拡大してしまうと、自分の立場がなくなるのでは」という危機感があったのでしょう。頼朝の勢力が京都に及ぶ前に法皇を幽閉し、朝廷を自分の思うままに動かし、頼朝追討の院宣を出させ一気に形成を挽回しようと考えます。

しかし後白河法皇も、義経並びに範頼が京に迫っている事に加えて義仲の存在を面倒に感じていたので、素直に義仲の意向に沿わず御所の法住寺を武装化させ、僧兵などを味方につけ義仲との対決姿勢を見せ始めます。後白河法皇は、義仲に京から去り平家追討を継続するよう命を伝えますが、この命令に従い京を去れば、そのまま義経たちが京に入り、朝廷並びに京都の守護を義経たちが行う可能性が起き、義仲の存在価値が失われてしまいます。

このため義仲は京を退去せず武装化した法住寺を攻め、後白河法皇の幽閉を目指します。こうして勃発した法住寺合戦は義仲の勝利に終わりますが、この戦いで義仲は朝廷を攻撃する行為を行い、自らを追い詰める立場になってしまいます。

義仲は、後白河法皇を幽閉し、自ら征夷大将軍となり、頼朝追討の院宣を出させるなど矢継ぎ早に勢力拡大の策を打ち出しますが、法住寺合戦によって逆臣となってしまった義仲に味方する兵はほぼいなくなります。義仲軍は急激に兵の数を減らし始め、次第にその落日が始まっていきます。

まとめ

後白河法皇と木曽義仲の関係について、法住寺合戦も踏まえご紹介しました。
北陸宮を奉じ、意気揚々と入京した義仲ですが、「養和の飢饉」を背景とした京都の治安悪化を改善できず法皇との関係は悪化してしまいます。

法皇が頼朝に接近したこともあり法住寺合戦が勃発。その後、鎌倉軍が京に迫る際に義仲は法皇を連れ北陸への逃亡も考えたそうですが、範頼・義経の想定より早い到着によりこれは諦めたようです。
義仲の死後、法皇は入京した義経との関係を深めますが、これは頼朝と法皇の関係、そして頼朝と義経の兄弟関係に亀裂を入れる一員となるのでした。