平清盛によって幽閉されてしまった後白河法皇
この幽閉が引き金となり、後白河の皇子・以仁王は全国に清盛討伐の令旨を発することになります。この令旨に呼応して木曽義仲、そして源頼朝が挙兵することとなりました。

この挙兵の結果、平氏政権は終わりを迎え、後白河も無事解放!頼朝とも仲良くやっていこう!となりそうですが、そう上手くはいかないのが人間というもの。

こでは後白河法皇と源頼朝の関係についてわかりやすく解説します。

頼朝の東国支配権を後白河法皇が認めた背景とは

後白河法皇と源頼朝の関係は、1183年10月、後白河が頼朝に東国支配権を付与したとされる「寿永二年十月宣旨」から始まります。まずはその背景について見ていきましょう。

以仁王の令旨に応じて挙兵した源頼朝。石橋山の戦いで大敗を喫してしまい、命からがら安房国まで船で逃げました。一族の木曽義仲が倶利伽羅峠の戦いに勝利して京都に攻め上るなど快進撃を続ける中、頼朝は上総国(現在の千葉県中部)と下総国(現在の千葉県北部など)に勢力圏を持つ上総広常を味方につけ、約2万騎もの大軍を得ることになります。広常は平氏と対立しており、清盛に勘当されるといった仕打ちを受けていました。

※参照:源頼朝の生い立ちや平治の乱における動向について。伊豆では何してたの?

頼朝に友好的な立場をとっていた広常ですが、もともとは、頼朝が当主に値するような人物ではない場合は、頼朝を殺してしまおうとも考えていたようです。また、頼朝が朝廷との関係を強く持とうとする一方で、広常は朝廷には従わず、関東独立を主張したり、頼朝に下馬の礼をとらなかったりするなど、頼朝との関係はギクシャクするようになりました。そんな広常は頼朝に謀反の疑いをかけられてしまい、そのまま殺されてしまいます。広常の死後、朝廷との関係強化を阻害する存在がなくなった頼朝は、朝廷との協調をより強く進めていくようになりました。

また、鎌倉に根拠地を定め、着実に勢力が大きくなっていく頼朝を危険視した平氏は、頼朝を倒すために軍隊を派遣します。駿河の富士川で両軍は対陣しましたが、平氏軍はそのまま何もすることなく都まで逃げ帰ってしまいます。この戦いののち、頼朝は鎌倉に帰り、関東の支配を固めることに専念することになりました。

※参照:後白河法皇と平清盛の関係は?なぜ幽閉されたのか?場所も解説。

こうして、京都には義仲、鎌倉には頼朝と、源氏の勢力が大きくなっていきました。ですが、義仲の子分たちによって京都の治安は乱れ、後白河は頼朝に助けを求めるようになりました。そして後白河は寿永二年十月宣旨を出し、頼朝の東国支配権を認めるに至ります。

法皇と義経の接近を頼朝はどう見ていたの?

頼朝と、彼の東国支配を快く思わない木曽義仲との仲はどんどん悪くなっていきます。義仲はそんな頼朝を追討することを後白河に認めさせるために、後白河の邸宅を襲撃し、頼朝追討の院宣を要求しました。その結果、義仲は征東大将軍に任じられました。
これに対して頼朝は、弟の範頼と義経を派遣して義仲追討を命じます。戦いは頼朝方の圧勝に終わり、義仲は討ち死にしました。

※参照:後白河法皇と木曽義仲の関係について解説。法住寺合戦とは?

こうして源氏の間で争っている間に、平氏は力を回復して、現在の兵庫県のあたりにまで帰ってきます。そんな平氏を頼朝が見逃すわけはなく、範頼や義経に命じて、平氏を「壇ノ浦の戦い」で滅亡させます。ここに、以仁王の挙兵から続く、源氏と平氏による戦い、「治承・寿永の内乱」は終結しました。

この治承・寿永の内乱で大活躍したのが頼朝の弟・源義経です。こうした背景もあり、義経は後白河に非常に可愛がられるようになりました。後白河によって義経は検非違使に任じられましたが、そこで義経は調子に乗ってしまい、頼朝に見放されるようになってしまいます。こうなってしまうと、義経はどうすることもできず、ついには義仲と同じように後白河に対して「頼朝追討の宣旨」を発するように求め、頼朝との対決姿勢を見せます。
ですが、義経には思うように兵が集まらず、頼朝から逃げるようにしばらく姿をくらませることにしました。義経が京都から姿を消してからも、頼朝軍はどんどん京都に集結していきます。そんな状況に耐えかねた後白河は頼朝に対して、「義経追討の院宣」を出します。急激に方向転換したわけです。

その後、頼朝の朝廷に対する態度はますます大きくなっていき、朝廷に守護・地頭の設置を求めました。その結果、国ごとに「守護」、荘園・国衙領ごとに「地頭」を設置し、1反あたり5升の「兵粮米」を徴収する権利を朝廷から得て、頼朝は義経をかくまった「奥州藤原氏」を残し、実質的に全国の覇者となりました。

後白河法皇が頼朝を征夷大将軍に任命しなかった理由とは?

義経のことをかくまっていた奥州藤原氏ですが、「義経追討のためにお前たちも滅ぼすぞ」と頼朝に脅されたため、奥州藤原氏3代目当主の藤原泰衡は義経殺害を決断し、その首を頼朝に送り、恭順の意を示しましたが、頼朝の怒りは収まらず、大軍を派遣して奥州藤原氏を滅ぼしました。1189年の出来事です。

こうして多くの人々を巻き込んだ義経征伐は終わりを迎えますが、この義経征伐を朝廷においてずっと支持してきたのが関白かつ藤原氏一族のトップでもあった九条兼実です。奥州合戦ののち上洛を果たした頼朝は、翌年の11月に兼実と会談。盟約を誓い合ったといいます。

この上洛の際に頼朝は「右近衛大将」に任命されることになります。実は頼朝が征夷大将軍に任命されたのはこの後の1192年で、後白河の死後、その跡を継いだ後鳥羽天皇によって任命されました。
それではなぜ、後白河は頼朝を征夷大将軍に任命しなかったのでしょうか。

当時は、朝廷高官は都にいなければいけない、という規則がありました。そのなかで例外的に征夷大将軍は都にいる必要がなく、さらにある程度の統治権を認められる立場であったため、頼朝を征夷大将軍にしてしまうと、鎌倉にいながら全国支配を認めることになってしまいます。頼朝のこれ以上の勢力増強を恐れた後白河は、こうした経緯で、頼朝を征夷大将軍にはしなかったと言われています。

一方、近年の研究では頼朝の征夷大将軍任命を後白河が阻害したことを否定する見方も出てきています。1184年、頼朝が義仲を討伐した後に後白河が「征夷将軍」という官職を与えようとしたのですが、頼朝はこれを辞退しています。後白河・頼朝の双方が征夷大将軍をあくまで名誉職と見なしていた点や、頼朝の征夷大将軍任命に関するやり取りが当時の資料から確認できない点が、この説を補強するポイントとなっています。

この記事のまとめ

後白河法皇と源頼朝の関係についてご紹介しました。
平氏を追い出した木曽義仲の乱暴さに困った後白河法皇によって、東国支配権を得た源頼朝。源平合戦で大活躍した弟の源義経。二人の間に生まれた確執から、栄華を極めた奥州藤原氏は滅び、頼朝を手中に入れました。

ですがその実質的な頼朝の支配とは裏腹に、それを認めたくはない後白河は頼朝を征夷大将軍には任じませんでした。後白河死後、後鳥羽天皇によって征夷大将軍に任じられた頼朝ですが、その7年後の1199年に亡くなってしまい、将軍は偉大な父を持つ頼家になりました。
頼家、弟の3代目実朝らにはほとんど権力はなく、いわゆる執権政治が始まることとなり、源氏政権は姿を変えてその後約130年間続くことになります。