始皇帝といえば誰でも聞いたことのある名前だと思います。

漫画「キングダム」でも主人公の親友「政」として登場しているからそっちの名前の方が浸透してるかもしれませんね。
政はやがて争乱の続いていた中国を統一し、「始皇帝」と呼ばれる事になります。

今回は、そんな政こと「始皇帝」がどんな人だったのかを、年表や万里の長城を踏まえわかりやすくご紹介します。

始皇帝ってどんな人?

まずは始皇帝がどんな人だったのかを、簡単にご紹介します。

紀元前259年のお正月に誕生した彼は、その諱を「政(せい)」と名づけられました。姓である「嬴(えい)」と並んで、嬴政と呼ばれる事もあります。

彼の父親は秦国と敵対していた趙へ人質として送られていた「子楚(しそ)」という人でした。「子楚」はそこで何かと世話をやいてくれた商人の「呂不韋(りょふい)」の妾であった「趙姫(ちょうき)」というとりわけ美人な女性に一目ぼれ。彼女を妻に貰い受けたそうです。この二人の間に生まれたのが政でしたが、実のところ本当の父親は呂不韋ではないかという噂もあったりします。

紀元前253年、秦は人質として政がいる趙国へ攻め込みました。当然人質の命は風前の灯となったのですが、その時父親の子楚は妻子を捨てて自分だけ脱出に成功しちゃいます。残された趙姫や政は、息を潜めるようにして敵に見つからないように生きるしかなかったのです。この時の生活が政の性格を厳しく冷たいものに変えたといっても言い過ぎではないかもしれません。

その後曽祖父が亡くなり、祖父が孝文王として即位すると同時に子楚は太子となったので、10歳になった政と趙姫をやっと秦に連れ戻すことができたのです。その後父親も荘襄王として即位したのですが、わずか3年で死去したので政が13歳の若さで王位を継ぐこととなりました。今なら中学生になったばかりの年齢ですよ。当然政治は、呂不韋などの大人が取り仕切ってくれたんですが、政もいつまでも子供ではありません。だんだん醜い大人の心が見えるようになり、呂不韋など自分に敵対する人たちを少しずつ処分していきます。

それから政はどんどん力を発揮して、韓、趙、燕、魏、楚、そして強国斉を倒してついに中国を統一します。紀元前221年のことです。政は39歳になっていました。「始皇帝」の誕生です。彼はここから中央集権・法治主義の国づくりを推し進めようとしました。郡県制をしいたのも彼です。

すごいですね。日本が戦国時代に天下統一したのは織田信長や豊臣秀吉で1600年より少し前でしたから、そういう点でみると中国はとても進んでいたんですね。紀元前221年頃、日本では弥生時代あたりですから農耕が盛んに行われるようになった時期ですね。

政は49歳でこの世を去ります。その後はあっという間に秦は滅ぼされ再び戦国の時代となります。項羽や劉邦が登場する新たな時代、三国志の世界へと歴史はつながっていくのです。

始皇帝の年表

ここでは、始皇帝の生涯を年表を使ってわかりやすくご紹介します。

誕生から呂不韋失脚まで

・紀元前259年
趙の国で、子楚と趙姫の子供として産まれる。

・紀元前253年
始皇帝の曽祖父、昭襄王が趙の都、邯鄲に攻め込む。
父親の子楚は妻と始皇帝を置いて国へ帰国してしまう。

・紀元前249年
始皇帝の祖父、孝文王が即位し、子楚は秦の皇太子となる。
しかし孝文王が在位3日で死去し、子楚がその王位を継承する。
そのため始皇帝も国へ帰国する事となる。

・紀元前246年
父親の子楚がなくなり、秦の王位を継ぐことになる。

・紀元前238年
丞相、呂不韋を失脚させる事に成功。
呂不韋は3年後に自殺する。

六国滅亡と中華統一

・紀元前230年
内史騰が韓を滅ぼす。

・紀元前228年
趙を滅ぼす。
始皇帝は趙の地に入り、恨みを持つ者を生き埋めにして帰国したとされる。

・紀元前227年
燕の刺客である荊軻により暗殺されかかる。

・紀元前225年
王賁が魏を滅ぼす。

・紀元前223年
王翦が楚を滅ぼす。
翌年には江南の平定を成し遂げる。

・紀元前222年
王賁が燕を滅ぼす。

・紀元前221年
王賁・蒙恬・李信が斉を滅ぼす。
これによって中国統一を実現する。

「始皇帝」として行ったこと

・紀元前220年
天下巡遊をはじめる。

・紀元前219年
泰山で封禅の儀を行う。
この頃から阿房宮の建設をはじめる。

・紀元前219年
蒙恬が匈奴を討伐する。

・紀元前215年
蒙恬が匈奴を討伐する。

・紀元前214年
万里の長城の建設が開始される。

・紀元前213年
李斯の進言により焚書坑儒を行う。

・紀元前210年
始皇帝がなくなる。

万里の長城と兵馬俑

世界遺産に登録されている万里の長城は始皇帝が作ったと有名ですがそれはちょっと違うんですね。始皇帝が中国を統一する前、それぞれの国は各自で攻め込まれないための用心に壁を築きました。それをときに壊して、作り直し繋げたのが始皇帝です。その長さは21,000kmを超えるほどでしたが、現存するのは6,200kmです。

始皇帝のお墓とされている始皇帝陵と兵馬俑も世界遺産に登録されています。テレビなどで見たことがある人も多いと思いますが、とても大きなお墓で周りには戦車が100台以上、馬が600頭、武士の姿の成人男性の等身大の俑は8000体近くもあり、みんな東を向いているそうです。この世を去っても多くの家臣に囲まれた大国の中にいたかったのかもしれないですね。一方で死を恐れ不老不死を願った彼の一面も見られます。

でも、この万里の長城も、お墓もその製作の過程で多くの民の犠牲者を出していることから決してみなが喜んだものではなかったんです。むしろ始皇帝に対する反感は大きかったと思われます。それが彼の死後すぐに秦が滅びることになった理由のひとつかもしれませんね。

この記事のまとめ

始皇帝がどんな人だったのかを、年表や万里の長城を踏まえわかりやすく解説してきました。

始皇帝は確かに中国を統一した最初の皇帝として偉大な人です。でも反逆者は容赦なく切り捨て、生き埋めにする残虐性も併せ持つ彼ははたして幸せだったと言えるのでしょうか。

せっかく果たした中国統一の世で、良政を行うことが本来の夢だったのではないかと切なく感じるのは私だけでしょうか。