平安時代を彩った藤原頼通

26歳で摂政に就任し、以後50年近く日本の政治を牽引。
関白として、高陽院の造営から平等院鳳凰堂の改修に至るまで、文化芸術にも深い痕跡を残しました。

和歌への愛情も厚く、後拾遺和歌集にその歌は選ばれています。

この記事では藤原頼通がしたことを辿り、その魅力に迫ります。

藤原頼通が摂政としてしたこと

藤原頼通は1017年、父親の道長に代わり摂政となりました。この時、頼通はわずか26歳で、これまでで最も若い摂政就任でもありました。

頼通が摂政としての役割を担うにあたり、まず注目すべきは、彼がこの時に道長から藤氏長者の地位を譲り受けたことです。これは、藤原家内での権力の正式な移譲を意味し、頼通が藤原家の実質的なリーダーとして地位を固めたことを意味しています。

ただ、頼通が摂政であったのはわずか2年でした。頼通は1019年に関白となり、この役職を50年近く務めることになるのです。

藤原頼通が関白としてしたこと

以下では、藤原頼通が関白としてしたことを分かりやすくご紹介します。

高陽院(かやのいん)を造営する

高陽院(かやのいん)は平安京にあった大規模な邸宅で、もとは桓武天皇の第七皇子である賀陽親王のものでした。

後に頼通が所有することとなり、1021年から豪華な寝殿造の建物を造営しました。

高陽院は後に皇室や摂家当主が居住し、院政の拠点となりましたが、承久の乱後に焼失し再建されることはありませんでした。

現在では、京都市埋蔵文化財研究所による発掘調査が行われ、庭園内の巨大池が確認されています。

養女の嫄子(げんし)を後朱雀天皇に嫁がせる

藤原頼通と正室である隆姫女王(たかひめじょおう)には娘が生まれませんでした。

そのため、頼通は妻の妹が産んだ嫄子(げんし)を養女とします。

そして1036年、頼通は嫄子を後朱雀天皇に嫁がせ、藤原家の政治的地位の強化をはかりました。

しかし、嫄子は後朱雀天皇との間に皇子を授かることはなく、この企ては失敗に終わりました。

実の娘の寛子(かんし)を後冷泉天皇に嫁がせる

諦めない頼通は1050年、実の娘である寛子(かんし)を後冷泉天皇に嫁がせることに成功します。

寛子と後冷泉天皇の関係は良好だったものの、こちらも皇子を授かるには至りませんでした。

天皇の外戚として政治の実権を握る」という藤原氏の手法は、上記2人の娘が皇子を産めなかったことにより破綻。

藤原摂関家の勢力も次第に衰えていくことになります。

宇治殿を平等院鳳凰堂に改修する

平等院は、京都府宇治市にある単立の寺院で、阿弥陀如来が本尊です。

歴史的には、宇治の地は貴族の別荘があり、藤原道長の別荘「宇治殿」が平等院の基となりました。

藤原頼通はこの別荘を寺院に改修し「平等院」としました。

この寺院には阿弥陀如来が祀られているお堂があるのですが、後に「鳳凰堂」と呼ばれるようになりました。現在では国宝として知られています。

平等院鳳凰堂は平安時代後期からの建造物や文化財が今なお多く残っており、1994年にはユネスコ世界遺産に登録されました。

頼通が晩年にしたこと

1061年、70歳になった頼通は太政大臣に任じられます。これは父・道長に倣ったものでもあり、1年足らずで辞しています。

1067年になると、頼通は関白を弟の教通に譲りました。その3年前には藤氏長者も教通に譲っています。

本心としては息子の師実に譲りたかったようですが、これは父・道長の遺言でもありました。ただ、その後の藤原氏の系統は師実に戻っています。

和歌について頼通がしたこと

上記の通り、藤原頼通は政治面での事績が知られてますが、文化芸術にも深い造形を持っていました。

特に頼通は和歌を愛しており、自らも歌を呼んだことで知られています。

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて編纂された「後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)」には、頼通の歌が14首含まれています

また、権力者としても歌合の開催や歌集の編纂を行っています。

頼通が和歌でしたことは、彼がただの政治家ではなく、文化と芸術にも深い影響を与えた多才な人物であったことを示してると言えるでしょう。

まとめ

藤原頼通は1017年、26歳で摂政に就任し、藤原家の実質的リーダーとなりました。

その後の彼の関白としての業績は多岐にわたり、高陽院の造営や、娘を天皇に嫁がせる試み、平等院鳳凰堂の改修などがあります。

しかし、嫁がせた娘が皇子を産まなかったため、藤原氏の政治戦略は破綻し、摂関家の勢力は衰えました。

文化面では、和歌を愛し、「後拾遺和歌集」に自作の歌を残すなど、政治家としてだけでなく、文化人としても影響を与えました。

頼通がしたことは、政治と文化の双方において平安時代に大きな足跡を残したと言えるでしょう。