大杉栄(おおすぎさかえ)は、社会や国家、宗教といった権威を否定するアナキスト(無政府主義者)として有名ですね。
新しい社会の樹立を目指し、日本において様々な活動を行いました。

そんな大杉栄ですが、女性関係について、なにかと話題が絶えなかったことをご存知でしょうか?
大杉栄は、自由恋愛論者で、数多くの女性と恋愛を経験してきました。

そこで今回は、大杉栄と「堀保子(ほりやすこ)」「神近市子(かみちかいちこ)」「伊藤野枝(いとうのえ)」の3人の女性の関係について、それぞれ詳しく解説したいと思います。

大杉栄と堀保子が結婚した経緯が強引すぎる…

まずは、大杉栄と内妻となった堀保子の関係について説明します。

1885年に愛媛県で産まれた大杉栄は17歳で上京。その2年後には社会主義思想に目覚めてます。
1906年3月には電車賃上げに抗議し、焼き討ち事件に関与したとされ逮捕されてしまいます。
3ヶ月後には保釈され、その後は社会主義組織「平民社」の中心人物であった堺利彦のところへ転がり込みました。

そこで、堺利彦の義理の妹であり、社会運動家でもあった掘保子と出会う事となります。

堀保子のことを気に入った大杉栄は、なかば脅しのような形で堀保子に求婚を続けました。
保子は1883年産まれで、年齢は大杉栄の2つ上でした。
彼の求婚に折れる形でその妻となった堀保子でしたが、大杉には定収がなく、保子が支える形となっていました。
この2人はあくまで内縁関係であり、正式な入籍はしませんでした。

また、大杉栄は保子がいるにもかかわらず、複数の女性と不倫関係を持っていました。
その後、後述する「日蔭茶屋事件」を経て、2人は関係を清算する事となります。

大杉栄と神近市子の関係について。日蔭茶屋事件とは?

つづいて、大杉栄とその愛人となった神近市子の関係について説明します。

1888年に長野県で産まれた神近市子は、津田梅子が創設した女子英学塾(現在の津田塾大学)を卒業
女学校の教師をへて東京日日新聞の記者であり、戦後は衆議院議員を5期務めました。
学生時代には平塚らいてうが創設した「青踏社」に参加するなど、婦人運動家としての活動でも知られています。

※参照:青踏社と新婦人協会の違いは?平塚らいてうと市川房枝の関係も解説

東京日日新聞の記者時代、社会主義思想に共感を覚えるようになった神近市子は、大杉栄の「仏蘭西文学研究会」に参加。
2人は次第に親しくなり、愛人関係となっていきます。

そして、この時大杉栄は伊藤野枝(詳細は後述)とも不倫の関係にありました。
大杉栄と伊藤野枝の関係が深まっていくことに対し、嫉妬心を抑えきれなくなった神近市子は、大杉栄を刺してしまいます。
これを、「日蔭茶屋事件」と呼び、神近市子を一躍有名にした事件でもありました。

この事件によって、神近市子は2年間の服役生活を経験します。
世間は市子に同情的であり、伊藤野枝を「悪魔」と罵ったことが、野枝が大杉との娘に「魔子」と名付けた原因となりました。

大杉栄と伊藤野枝の関係と、謎に包まれた甘粕事件

大杉栄と伊藤野枝の関係についても、改めて見ていきましょう。

1895年に福岡県で産まれた伊藤野枝は上京後、自身が通学していた学校で英語教師をしていた辻潤と結婚します。
後に平塚らいてうが結成した青踏社に入り、やがてらいてうに代わり『青鞜』の編集長に就任します。

野枝は次第に無政府主義に傾倒。
やがて同志である大杉栄と知り合い、行動を共にするうちに大杉に夢中になります。
野枝は辻潤との間に2人の男の子を産んでますが、そんな事はお構いなしにと夫と子供を捨て、大杉との不倫の道を選びました。

その後、日蔭茶屋事件が起き、神近市子の投獄、堀保子との関係の清算によって、最終的に大杉栄と結ばれました。
当時、伊藤野枝は平塚らいてうが創刊した雑誌『青踏』の編集長を務めていましたが、大杉との恋愛に夢中になるあまり自身の仕事を放り出してしまいます。このため、『青踏』は廃刊する事となりました。

※参照:伊藤野枝と青鞜社の関わりについて。平塚らいてうとの関係は?

その後、大杉栄と伊藤野枝の間には1917年から23年にかけて5人の子供が産まれています。
前述した魔子をはじめ、エマ、エマ、ルイズ、ネストルの5人を産んでますが、このうち魔子以外の名前は全て海外の無政府主義者がその由来となっています。
野枝の子供たちは彼女の死後、それぞれ眞子、幸子、笑子、留意子、栄に改名されています。

この間、大杉は労働運動や機関紙の発刊、海外の無政府主義者と交流を行うなど、積極的に活動を行っていました。
こうした大杉の動向を、苦々しく思っていた軍隊関係者も少なくなかったよです。
1923年9月、関東大震災が勃発。震災の混乱に乗じて無政府主義者が政府の転覆を企てようとする噂が流れました。

こうした背景の元、大杉栄と伊藤野枝、そして大杉の甥の6歳の男の子の3人が憲兵の甘粕正彦に殺されてしまう「甘粕事件」が勃発します。大杉は38歳、伊藤野枝は28歳の若さでした。
この事件は謎が多く、甘粕は主犯ではない説や、男の子の最後には関与してない説などの複数の説が存在します。

まとめ

大杉栄の恋愛対象となった3人の女性について解説しました。
まとめると、以下のようになります。

大杉栄は堀保子と半ば強引な形で結婚したが、正式な籍は入れなかった。
「日蔭茶屋事件」とは、大杉栄が不倫関係にあった神近市子によって刺された事件。
大杉栄と伊藤野枝は、不倫関係から内縁関係となるが、甘粕事件で殺害された。

複数の女性と関係を持った大杉栄ですが、堀保子とは内縁関係であり、伊藤野枝とも正式な入籍をしませんでした。
38歳で亡くなった大杉ですが、もし生きていたら他の女性に走ったのか、気になる所ではあります。