鎌倉時代初期に幕府内で活躍した大江広元ですが、その子孫はどうなったのかご存知でしょうか。
戦国武将の毛利元就の祖先としても知られる広元ですが、どのような系図で元就と繋がってるのかも気になりますよね。

大江広元の子孫について、広元の5人の男子の家系がその後どうなったのかを解説します。

毛利家から公家まで多種多様!大江広元の子孫について

大江広元の子孫ですが、広元には男子が5人おり、それぞれが家を興しました。
長男の大江親広、次男の長井時広、三男の大江政広、四男の毛利季光、五男の海東忠成になります。
このうち、四男の毛利季光の家系が戦国武将で有名な毛利元就へと繋がっていく事となります。

また、広元には公家の飛鳥井家の祖として知られる飛鳥井雅経(参議雅経)に嫁いだ娘がいます。
この2人からは飛鳥井家2代当主である教定(のりさだ)が産まれており、その家系は現在に至るまで続いています。

以下では、広元の男子5名の子孫がどうなったかについて見ていきましょう。

長男の大江親広は出羽の寒河江氏に

まずは長男・大江親広の子孫についてです。
大江親広は承久の乱で父・広元や弟たちとは異なり朝廷側につきました。
乱が終結した後は母方の実家を頼り出羽国に逃れ、その系統は寒河江(さがえ)氏を興します。

この寒河氏はその後400年間、出羽国村山郡(現在の山形県西村山郡および寒河江市)を治めますが、戦国時代に活躍した最上義光と戦い破れ、当主が自刃し滅亡します。
ただ寒河江氏にも分家がたくさんおり、水戸藩や福井藩など全国各地の藩主に仕えていた事も知られています。

次男の長井時広の家系からは長州藩重臣が

大江親広は承久の乱で広元と戦ったため、大江氏の惣領(後継者)になったのは次男の長井時広でした。
時広の子孫はその後日本全国に広がりますが、その本家が拠点としていたのは出羽国置賜郡(現在の山形県長井市)でした。この本家は鎌倉時代を通して続きますが、室町時代初期、戦国武将・伊達政宗の祖先でもある同姓同名の「伊達政宗」と戦い、衰退する事となります。

長井氏は他にも分家があり、毛利家に仕えた福原氏や幕末の長州藩の家老として有名な長井雅楽はこの系統から出ています。

三男の大江政広の家系は上杉家重臣に繋がる

広元の三男である大江政広は、上野国那波郡(現在の群馬県伊勢崎市)を所領としていた那波氏(なわし)を継承し那波宗元と名乗りました。この家系は室町時代、鎌倉公方に仕えた後山内上杉氏に仕官。戦国時代には那波顕宗が上杉謙信・景勝の親子に仕えますが、九戸政実の乱の鎮圧中に戦死し、那波氏は断絶してしまいました。

ただ顕宗の息子である俊広は、上杉家の家臣で同じ大江広元の子孫である安田能元(やすだ よしもと)の養子となり、那波宗元の子孫は安田氏としてその後も続く事となりました。

毛利季光の子孫は毛利元就だけじゃなかった

広元の四男である毛利季光は、宝治合戦で三浦氏側につき自害。この時季光の子供たちも多くが後を追いますが、四男の毛利経光のみが難を逃れました。大江氏の惣領となった長井氏の取りなしもあり、安芸国吉田荘および越後国刈羽郡の所領安堵を許されます。
吉田荘を継承したのは経光の四男・毛利時親で、彼は「安芸毛利氏の祖」と称されています。時親の9つ後の毛利家当主が毛利元就にあたります。

また、越後国刈羽郡を継承した一族は、上記で触れた上杉家家臣の安田能元や、同じく上杉謙信に仕えた北条高広(きたじょう たかひろ)を輩出しています。

五男の海東忠成の家系からは徳川四天王が!?

広元の五男である海東忠成は、尾張国海東郡(現在の愛知県あま市)を領有し、後には地元の熱田神宮の大宮司にもなりました。
その後の海東氏ですが、徳川家康に仕えた酒井氏に連なると言われていますが、明確な系図がある訳ではなく、後世に創作された説もあります。
この酒井氏からは戦国時代、徳川四天王の筆頭として知られた酒井忠次や、江戸時代初期に老中・大老を務めた酒井忠世などの人物が輩出されています。

この記事のまとめ

大江広元の子孫について、広元の5人の息子たちの系統のその後を見ていきました。
簡単にまとめると以下のようになります。

・長男の大江親広…出羽の寒河江氏に。子孫は全国の藩に仕官。
・次男の長井時広…毛利家家臣の福原氏や長井雅楽などを輩出。
・三男の大江政広…上杉家家臣・安田氏を継承。
・四男の毛利季光…毛利元就を輩出し長州藩に。上杉家家臣・北条高広も輩出。
・五男の海東忠成…徳川家臣として有名な酒井氏を輩出した説あり。

この中では四男の毛利季光から毛利元就が輩出されたのが注目されますが、上杉家の家臣となった人物に広元の子孫がいたのは驚きました。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する広元。ドラマを機に、その事績にも注目が集まるかもしれませんね。