関ヶ原の戦いの西軍の総大将毛利輝元

戦いには参加しなかった輝元ですが、一体どこにいたのでしょうか?

石田三成との関係や、関ヶ原後に何をしていたのかも気になりますよね。

この記事では、関ヶ原の戦いにおける毛利輝元の動きについてご紹介します。

結論:大坂城西の丸にいた。ではその背景は?

関ヶ原の戦いの最中、毛利輝元は大坂城西の丸にいました。

大坂城西の丸と言えば、会津討伐に立つ前の家康がいた場所でもあります。

※参照:関ヶ原の戦いにおける徳川家康の行動は?場所やその後の動きも解説

家康が会津へ出陣したのは1600年6月16日。

そして輝元が大坂城入りしたのは7月19日でした。

その背景としては、輝元を西軍の総大将とした石田三成や大谷吉継の思惑がありました。

そして12日、五奉行の増田長盛・長束正家・前田玄以が輝元に大坂入りを促します。

輝元は6万の軍勢を率い急ぎ大坂入り。

17日には一門の毛利秀元が、大坂城西の丸を占拠して家康の留守居役を追い出しています。

この秀元の行動は、輝元の指示あってのものと考えられています。

大坂城西の丸に入った輝元は家康に対して宣戦布告を行うと共に、側近を本丸にいる秀頼の元へ送り込み、「豊臣政権の下にある正規軍」という立場になります。

その後、輝元ら西軍諸将は軍議の上、三成や宇喜多秀家が畿内や美濃・尾張に出兵してこれらを平定することを決めます。

一門の秀元や吉川広家、安国寺恵瓊も三成や秀家に従軍することとなりますが、輝元自身は大坂城にいて秀頼を警護することになりました。

あわせて家康が西進してきた際は、輝元が西軍を率いてこれを迎え撃つことも決まったのです。

輝元が大坂城にいたもう1つの理由:毛利家の勢力拡大をはかった


また、毛利輝元が大坂城に留まった背景には「毛利家の勢力拡大」という別の意図もありました。

輝元は「西国の支配者」を自任しており、関ヶ原の戦いの最中、国元の家臣を通し九州や四国で戦乱を引き起こします。

豊後国(現在の大分県)には、かつてこの地を治めていた大友義統を派遣。

東軍についた黒田家、細川家と戦わせます。

四国では東軍についた蜂須賀至鎮の居城である徳島城を占拠

加藤嘉明や藤堂高虎が領有する伊予国(現在の愛媛県)では、かつてこの地を治めていた小早川家の旧家臣団を扇動して加藤・藤堂両家への攻撃を企てます。

しかし関ヶ原の戦い自体が半日で終わってしまったため、輝元の野望が叶うことはありませんでした。

関ヶ原の戦いにおける毛利輝元と石田三成の関係は?

そもそも、毛利輝元が石田三成と組んだ背景は何だったのでしょうか?

以下では輝元と三成の関係について、家康への対抗意識にも触れつつご紹介します。

輝元と石田三成の関係:1590年頃には折衝していた形跡あり

毛利輝元と石田三成の関係ですが、この2人の接点がいつ頃はじまるかは明確には分かっていません。

ただ、三成は秀吉配下の奉行として諸大名とやり取りする機会が多く、中でも毛利家(と島津家)と交渉にあたる機会は多かったようです。

そんな三成に対し、輝元は家臣の児玉元兼に対して以下のように述べています。

彼仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)

これは1590年頃、児玉元兼が所有している「貞宗」の脇差を秀吉が欲しいと言い出したことに端を発するものです。

秀吉へ脇差を譲るのを嫌がる元兼に対して、輝元は書状を送ります。

その際、交渉相手となった三成についても「大いに気を使う」と述べてる訳ですね。

https://twitter.com/zibumitunari/status/1616983346365726721

輝元にとっては、秀吉側近の三成に対して悪印象を抱かれることは避けたかったのだと思われます。

一方の三成にとっては、秀吉側近という立場で毛利家と接点を持ったことが、後の関ヶ原の戦いで毛利家を味方に引き入れる展開へと繋がっていったのでしょう。

輝元が石田三成に接近した理由:徳川家康に対抗するため

秀吉死後、石田三成ら奉行衆は家康と対立します。

ここでカギを握ったのは輝元の存在でした。

輝元は奉行衆につくか、家康に接近するか迷ったようですが、結局は三成らに接近。

関ヶ原の戦いへ繋がっていくこととなります。

背景としては、毛利家内の所領分配問題に家康の介入を許した点が挙げられます。

これは一門の毛利秀元と吉川広家の領土問題や、小早川隆景死後の旧小早川領をどう処理するかという問題でした。

輝元としては、有力者である吉川広家の勢力削減を狙っており、三成もこうした輝元の意図を後押しする形で裁定を進めていました。

しかし三成失脚後、この領土問題に毛利家の勢力削減を計る家康が介入します。

結果として毛利家の領土が減らされることはありませんでしたが、輝元としてはは家中の領土問題を自らの手で決めれなかった、という悔しさが残りました。

家康の勢力拡大を食い止めなければいけない…

輝元挙兵の背景にはこうした事情があったのです。

関ヶ原の戦い後における輝元の行動について


しかし、関ヶ原の戦いは西軍敗北という形でわずか半日で決着がついてしまいます。

ではその後、輝元はどうしたのでしょうか。

以下では関ヶ原後の輝元の行動について見ていきましょう。

家康との交戦を断念し大坂城から退去する

前述した通り、輝元は大坂入城に際し6万の手勢を率いていました。

また関ヶ原の戦いで毛利家は傍観していただけであり、その手勢は無傷な状態。

他の大名家の手勢も加えると東軍と戦える余力は依然としてあり、秀元や立花宗茂、島津義弘は引き継ぎ家康との戦いを主張していました。

しかし輝元は家康と戦う気はなく、家康からの使者に所領はどうなるかを確認しています。

家康にとっても輝元らの軍勢と戦う気はなく、輝元を円満に大坂城から退去させたいと考えていました。

9月25日になると、輝元は所領安堵の知らせを受けたことで大坂城から退去します。

あわせて九州や四国に駐屯していた毛利勢もあわせて撤退させるのでした。

改易は免れるが周防・長門2カ国へ減封される

9月27日なると、輝元と入れ替わる形で家康が大坂城西の丸に入ります。

そこで家康は、輝元が西軍の総大将として積極的に行動していた証拠である書状を次々と発見するのでした。

当初家康は、「輝元は名目上の総大将として担がれただけ」と東軍に内通していた毛利一族の吉川広家から聞かされていました。

しかしこれは話が違うとなり、家康は毛利本家を改易の決意。

あわせて吉川広家に周防・長門の2カ国を与え、毛利家の家督を継がせようとします。

これに対し、吉川広家は主家の存続のため弁明をはかります

これが認められ、毛利家は周防・長門の2カ国を安堵され、何とか毛利本家の改易は免れるのでした。

しかし石高は112万石から30万石と大幅に減らされてしまい、少なくない家臣を手放すこととなります。

その後、輝元は出家し家督を嫡男の毛利秀就(ひでなり)に譲りますが、実権はなおも握り続けるのでした。

関ヶ原後の輝元は領国の内政や家中統制に尽力した

関ヶ原後、輝元は領国の内政に力を入れ、その実質的な石高は1610年には53万石、1625年には66万石とにまで上がったと言われています。

1605年には萩城を完成させ、以後この地は幕末まで長州藩の拠点として続くこととなります。

https://twitter.com/vulcanodon2/status/1668241526806425600

また、嫡男の秀就への家督相続を円滑にするため、一族の秀元や吉川広家の嫡子広正、秀就の弟である就隆らの間で婚姻をはかり、家中の結束に務めるのでした

一方、家中統制のため一部家臣の粛清を行っており、1601年には側近の張元至を、1605年には遠縁の熊谷元直を、1618年には吉見広長を切腹もしくは殺害しています。

輝元1625年に73歳で死去。

以降、長州藩主は幕末まで続くこととなるのでした。

まとめ

関ヶ原の戦いにおいて毛利輝元がどこにいたのかや石田三成との関係、関ヶ原後の輝元の動向についてご紹介しました。

まとめると、以下のようになります。

関ヶ原の戦いで毛利輝元は西軍の総大将として大坂城西の丸にいた。
関ヶ原本戦には一門を派遣する一方、九州や四国への勢力拡大もはかっている。
1590年頃、輝元は石田三成に対して「大いに気を使う存在」と家臣に述べている。
家康への対抗意識から輝元は三成に接近するが、関ヶ原後は大坂城から退去した。
関ヶ原後、輝元は家中の統制や内政に力を入れ、石高は飛躍的に上昇した。

輝元にとって誤算だったのは、関ヶ原の戦いが半日で終わってしまったことにある気がします。

もし関ヶ原の戦いが長期化したら輝元の行動がどのように変わったのか…色々と興味深いですね。