シェイクスピアの名を知らない人はいないでしょう。しかし具体的にいつの時代を生き、どういった境遇にあり、どんな才能を持ったアーティストだったのか、ご存知でしょうか。
この記事では、シェイクスピアの人生を年表形式に当てはめて、どんな人物だったのかを。また、残した作品にどんな特徴があるのかをわかりやすくご紹介します。
シェイクスピアってどんな人?
ウィリアウム・シェイクスピアは16世紀後半から17世紀序盤にイギリスのロンドンで活躍した戯曲家です。詩人としての顔もあります。
戯曲、というのは簡単に言うと台本です。ルネサンス期にあった当時、イギリスの統治者であるエリザベス1世が好んだこともあり、演劇が一般公演、御前公演ともに質、量ともに繁栄を極めていました。
シェイクスピアの書いた戯曲はその演劇のためのものです。現代日本のテレビドラマにおける三谷幸喜氏のポジションですね。
さて、どんな人物、どんな生涯だったのでしょうか。
生まれはイギリスのストラトフォード=アポン=エイヴォンです。ロンドンの北西120km~130kmほど離れたところにあります。父は皮手袋商人として成功した人物で市会議員でもあります。シェイクスピア誕生後には市長も務めました。また、母はジェントルマンと呼ばれる支配階級の出自です。両親ともに名のある背景を持っていますので、家は裕福であったことが伺えますね。
ところが、その父が罪を犯します。ライセンスなしに羊毛を販売、つまりは闇市に手を出したのです。それにより重い罰金を課せられ、さらに市議会でのポジションも失います。当然、家計は苦しくなり、おそらくはそれが原因でしょう。シェイクスピアは通っていたキングエドワード6世学校を14歳で中退したとされます。
ただし、学生名簿が存在しないためシェイクスピアが通っていたという確たる証拠は残っていません。
その後、18歳の時に結婚します。相手は何と8歳上の姉さん女房で、名前はアン・ハサウェイ。アメリカの有名女優さんと同姓同名ですね。しかも出来ちゃった結婚だというではないですか。シェイクスピア…やりますねえ。
ハサウェイとの間に子を授かった後の事ははっきりしませんが、彼女との間には3人の子供が産まれています。結婚から3年後にロンドンへ移住したとは言われています。そこからさらに7年間は何をしていたのか、荒唐無稽なものも含めて諸説ありますが記録に残っていないのです。
ともあれ、イギリスの中心地ロンドンに降り立ちました。ここから戯曲家シェイクスピアの活躍が始まります。28歳の時、再度、記録に登場する時点で既に他の作家からの誹謗中傷を受けています。非難されるというのは悪いことに見えますが、名声を得る人間とはそういうものでしょう。今の世も同じですね。目立つ人は叩かれるのです。シェイクスピアがロンドンで大きな成功を収めていたことが分かります。
当時は戯曲家としてのみならず俳優としても活動していました。プレイングマネージャーのようなものですね。さらに劇団を共同所有したり、劇場の共同株主になったりと経済的にも大変恵まれていたことが想像されます。シェイクスピアの一座に対してはジェイムス1世(エリザベス1世が没した後の国王)が自らパトロンになることを申し出ました。それはもう勝ち組確定でしょう。もちろん、それだけの実力と人気があったからこその話です。
その後、49歳で引退します。そして故郷のストラトフォードに戻り、52歳でその生涯を閉じたのでした。
なお、シェイクスピアの誕生日は4月23日ではないかとされています。はっきりした記録はないのですが、洗礼を受けたのが4月26日で、洗礼は生後3日で受けるのが一般的とされていることが根拠です。
一方、その命日は4月23日とはっきりしています。仮説通りであれば誕生日と命日がイコールだということになりますね。
シェイクスピアの年表をわかりやすく解説
ここでは、シェイクスピアの生涯を年表にしてわかりやすくご紹介します。
・1564年(0歳)
ストラトフォード・アポン・エイヴォンにて誕生する。
・1578年(14歳)
一説によると、通っていたエドワード6世校を中退したとされる。
シェイクスピアはこの学校でラテン語の演劇を学んだと言われている。
・1582年(18歳)
アン・ハサウェイと結婚する。
彼女はシェイクスピアの出生地の近隣の出身で、一説では家族ぐるみで付き合いがあったとされる。
・1583年(19歳)
長女スザンナ誕生する。
・1585年(21歳)
長男ハムネットと次女ジュディスの双子が誕生する。
※この間の事跡は不明。教師や役者をしていたとする説もある。この間にロンドンへ移住する。
・1592年(28歳)
戯曲家・俳優としての記録が登場し始める。
「ヘンリー六世」が上演される。
・1595年(31歳)
『ロミオとジュリエット』が上演される。
・1596年(32歳)
『ヴェニスの商人』を執筆する。
この時期の作品は、史劇や喜劇が中心であった。
・1599年(35歳)
古代ローマの将軍・カエサルの最後を題材とした『ジュリアス・シーザー』を発表する。
この頃から、悲劇を書くようになる。
・1600〜1606年ごろ(36〜42歳)
「シェイクスピアの四大悲劇」と称される以下の4作品を執筆、上演する。
・ハムレット(1601年ごろ)
・オセロ(1602年)
・リア王(1605年ごろ)
・マクベス(1606年ごろ)
・1607年ごろ(43歳)
古代エジプトの女王・クレオパトラを題材とした『アントニーとクレオパトラ』を執筆する。
この頃から、作風が悲劇からロマンス劇に変化する。
※参照:クレオパトラってどんな人?年表や美人だったのかを解説!
・1608〜1611年ごろ(44〜47歳)
「ロマンス劇」として有名な『ペリクリーズ』『冬物語』『シンベリン』『テンペスト』を発表する。
このうち『テンペスト』は、シェイクスピアが単独で執筆した最後の作品となった。
・1613年(49歳)
引退し、故郷のストラスフォードへ戻る。
・1616年(52歳)
シェイクスピアが亡くなる。
一説には、ニシンの魚が発した感染症が原因とされている。
シェイクスピアが残した作品の特徴は?
さて、シェイクスピアが残した作品の特徴についても見ていきましょう。
戯曲家としての記録が登場し始めてから引退までの約20年間に、シェイクスピアの作風は次の4つに分かれ変遷していきます。
史劇(歴史もの)
・ヘンリー六世
・リチャード三世
喜劇
・夏の夜の夢
・ヴェニスの商人
・お気に召すまま
・十二夜
悲劇
・ロミオとジュリエット
・ジュリアス・シーザー(史劇でもある)
・四大悲劇(ハムレット、マクベス、オセロ、リア王)
・アントニーとクレオパトラ(史劇でもある)
ロマンス劇
・ペリクリーズ
・冬物語
・シンベリン
・テンペスト
彼の作品のうち、有名どころが悲劇ものに集まっているというのは興味深いところですね。それまで喜劇、つまりはコメディを主に描いていたわけです。それが一転して悲劇、というのも「その間に何があったのか?」と思ってしまいます。
また、冒頭に書いた通りシェイクスピアは詩人でもあります。シェイクスピアの詩といえば『ソネット』です。ソネットというのは、文末を一定調子に揃えて書かれる14行の詩のことをいいます。文末を揃えるというのは「韻を踏む」ということですね。韻を踏みながらの14行です。
シェイクスピアが妻にあてた詩などソネット集は全154作あり、それらはシェイクスピア風ソネット(もしくはシェイクスピア風十四行詩)と呼ばれる作風で成り立っています。
シェイクスピア風ソネットの他にはイタリア風ソネット、イギリス風ソネットなどがあります。
国名を冠するソネットと、シェイクスピアという個人の名前を頂くソネットが同列に扱われているわけです。スゴイですね。
この記事のまとめ
シェイクスピアがどんな人だったのかを、年表や作品の特徴を交えわかりやすくご紹介しました。
中世イギリスに留まらず、現代日本にも伝わる偉大な作品を残したシェイクスピア。彼についてはあまりネガティブな記録が残っておらず、その才能を活かして豊かな人生を送りました。メデタシメデタシ、という幸せ一辺倒のようにしか見えないかもしれません。
しかし、もちろん山あり谷ありの人生であったでしょう。彼の作品からその時その時の苦悩、葛藤が見えてくるかもしれません。是非、彼の作品に触れてシェイクスピアという「人」のもっと深いところを感じてみてください。