関ヶ原の戦いやその前後で、徳川家康はどのように行動していたのでしょうか。
家康がいた場所の変遷や、関ヶ原の戦い後の動向も気になりますよね。
この記事では、関ヶ原の戦いにおける徳川家康の行動というテーマで、家康の動向をその前後も含めご紹介します。
関ヶ原の戦い前の徳川家康の行動やいた場所は?
まずは関ヶ原の戦いが起こる前の徳川家康の行動について見ていきましょう。
家康がいた場所についてもあわせてご紹介します。
1595年;上洛し伏見城に滞在する
1590年に関東に移封され、江戸の開発に注力していた家康ですが、1595年の秀次事件をきっかけに秀吉から上洛を命じられ、伏見城に滞在します。
伏見城 pic.twitter.com/yf0IWOQ7dp
— 鷹山 (@YOUZAN_UKOGI) October 8, 2023
これを機に、家康は江戸より伏見城に滞在する期間が多くなります。
1599年、石田三成が武断派7将から襲撃される事件が起こり三成は家康の元へ身を寄せますが、この時家康がいたのも伏見城でした。
1599年:大坂城へ移り豊臣秀頼を手中に収める
1599年7月、家康は伏見城を離れ大坂城に入り、豊臣秀頼を手中に収めることとなります。
この時期の家康は、前田利長や大野治長、浅野長政らに暗殺を企てられたとして彼らを処分。
また一部の諸大名の加増を行ったり、オランダ船リーフデ号の豊後国漂着後の事後対応を行っています。
1600年3月:上杉討伐のために江戸から小山へ
1600年3月、会津の上杉景勝が不穏な動きを見せたとして家康は上杉討伐を決意。
6月には居場所を大坂城から伏見城に移し、行軍を続け翌7月1日に江戸に入ります。
この行軍は遅く、家康としては石田三成の挙兵を待っていたと言われています。
7月半ばになると西軍が挙兵します。
一方の家康は21日に会津に向け出立し、小山(現在の栃木県小山市)に入り西軍の挙兵を知るのでした。
関ヶ原の戦いでの徳川家康の行動やいた場所について
三成挙兵により、いよいよ関ヶ原の戦いが幕を開けます。
関ヶ原の戦いにおける家康の行動や、滞在した場所について見ていきましょう!
1600年8月:江戸に戻り1ヶ月間滞在する
西軍の挙兵を知った家康は、8月5日に小山から江戸に戻り、以後1ヶ月滞在します。
その意図は常陸国(現在の茨城県)の佐竹義宣への備えだと言われおり、並行して諸大名や家臣に書状を送っていたようです。
一方、福島正則や池田輝政ら豊臣恩顧の大名は先に西進し、西軍についた岐阜城の織田秀信と激突。
岐阜城を落とすことに成功します。
https://twitter.com/chiko1600/status/1692698696004338054
家康としてはこの岐阜城攻略は予想外の出来事だったようで、自分が着陣するまで動くなと福島正則らに書状を送ってますね。
1600年9月:関ヶ原から再度大坂城へ
9月に入ると、家康は江戸を離れ11日に清州、そして14日に美濃赤坂に到着します。
関ヶ原の戦いはその翌日(9月15日)に行われ、東軍が勝利。
家康は本陣から動かず指揮を取っていたと見られますが、当日の動きを記した一次資料は見つかっておらず、実際彼がどう行動していたかは謎に包まれています。
https://twitter.com/momookimomo/status/1702883312967278844
その後、西軍の総大将・毛利輝元の大坂城退去を見届けた家康は27日に大坂城に入り、諸大名への論功行賞を行うのでした。
※参照:毛利輝元は関ヶ原の戦いでどこにいた?石田三成との関係や関ヶ原後の動きも解説
その後家康がいた場所:伏見城から二条城、駿府城へ
関ヶ原の戦い後の徳川家康の行動についても見ていきましょう。
関ヶ原後は大坂城にいた家康ですが、翌1601年3月には大坂城を離れ伏見城へ移動。
戦後処理を続ける一方、征夷大将軍として徳川幕府を開く準備も始めます。
そして1603年には朝廷の使者が伏見城に派遣され、家康は征夷大将軍に就任。
この時、家康は伏見城から二条城へ移り、後陽成天皇への拝賀や公家・諸大名への饗応を行うのでした。
2年後の1605年には、家康は将軍職を後継者の徳川秀忠に譲っています。
そして現在の静岡県静岡市にある駿府城へ移り、この場所で「大御所」として君臨するのでした。
まとめ
関ヶ原の戦いやその前後における徳川家康の行動や彼がいた場所、関ヶ原後の動きについてご紹介しました。
まとめると、以下のようになります。
・関ヶ原の戦い勃発前の家康は伏見城や大坂城に滞在していた。
・上杉討伐により家康は江戸から小山まで行軍している。
・西軍挙兵により家康は江戸に戻り、1ヶ月ほど滞在している。
・関ヶ原の戦いでの家康の正確な行動は資料が乏しくわかっていない。
・関ヶ原の戦い後の家康は大坂城に入り、後に伏見城に戻っている。
こうした家康の行動を見ると、江戸にはあまり滞在してないことが分かります。
「江戸は秀忠に任せる」という意志があったのかもしれませんね。