群雄割拠の戦国時代、個性的な戦国大名たちは面白い逸話の宝庫でもあります。
その智略や勇敢さを伝える話だけでなく、ゾッとするエピソードも。
真偽のほどは定かではありませんが、「この人ならそういう話を残しそうだ」と納得させるような内容だからこそ、人々の間で語り継がれてきたのでしょう。
今回は、そんな戦国時代の逸話を5つご紹介します。
戦国時代の面白い逸話その1 伊達政宗と「瓢箪から駒」
1614年、大坂冬の陣で和睦が成立し、家康方の大名たちは暇をもてあそんでいました。そこで陣中のあちこちで「香合わせ」をしようということになります。香合わせは、香木のかけらを燃やして木の名前を当てるゲーム。名前を当てた者に賞品を出していて、各大名とも鞍の泥除けや弓矢といった賞品を出していました。
そこに伊達政宗も参加することになったのですが、彼が出した賞品はなんと瓢箪(ひょうたん)。いつも腰からぶら下げている粗末なものでした。オシャレで知られていた伊達政宗。自身も軍団もいつもきらびやかに飾っていて、オシャレな人のことを指す「伊達男」の語源とされています。そんな政宗が粗末な賞品を出してきたので、他の大名たちは「おかしな景品だ」といって、香合わせに勝っても誰も政宗の賞品を選ぼうとしませんでした。結局、香合わせの主催者の家来がひょうたんを取り、滞りなく香合わせは終わりました。
政宗は帰るときになって、「ほら、瓢箪から駒が出たぞ」と、自分が乗ってきた、豪華に飾り付けられた馬をそのものに与えました。周囲の人々は政宗の真意を知り、とてもうらやましがったということです。やることが派手で周囲の度肝を抜いたという政宗。サプライズ好きでもあったのかもしれませんね。
戦国時代の面白い逸話その2 無茶な戦いをよしとしなかった織田信長
織田信長については、さまざまなエピソードが知られています。若い頃は茶道で使う茶筅(まげ)のような髷(まげ)を結い、腰からいくつも巾着袋を提げていた奇怪な格好をしていたとか、その姿で父の葬儀に出たとか、破天荒な人というイメージが定着しています。
しかし、信長は徹底した合理主義者でもあったようです。
長島一向一揆(1570~74年)平定でのこと、織田家随一の家臣である蒲生氏郷は敵の武将と取っ組み合いになり、なんとかその首を持って信長のもとに戻ってきました。しかし、信長は氏郷を誉めず、こう言ったそうです。「武士にとって敵将の首を取り、功名を立てるのは確かに一番大切なことだ。しかし、首さえ取ればよいというものではない。今回のおまえの行動は軽率だ。自分の命も顧みず、ムチャをして首を取るのは武将としてひとかどの人物を目指すような者がすることではない。よく覚えておけ」
信長は、聡明で文武両道の氏郷をとても買っていたといわれています。「なんでもいいから手柄を挙げてこい」と言わない信長。「心意気」や「やる気」といったものを過大評価しないところは、会社の上司に聞かせてやりたい…と思った人もいるのではないでしょうか?
戦国時代の面白い逸話その3 敵を信長から逃がした豊臣秀吉
農民から天下人へと駆け上がった豊臣秀吉。織田信長の元で草履取りから城持ちへと出世していく物語は昔から人気がありますね。
秀吉が武将として活躍したのは、1566年に信長が美濃の斎藤氏を攻めたころが最初と考えられます。この戦いでは、秀吉が長良川左岸にある墨俣に一夜で城を築いたという話が有名です。「墨俣城」の実態は砦のようなものだったのではないかともいわれていますが、真偽のほどはよくわかりません。
さて、美濃攻略で秀吉が果たした大きな仕事のひとつに、斎藤氏の家臣である宇留摩(現在の鵜沼)城主の大沢次郎左衛門を寝返らせたことが挙げられます。大沢を連れて信長の元へ赴きますが、信長は「信用できないから斬れ」と命じます。
すると秀吉は「寝返ったものを斬ってしまっては、今後降参するものがいなくなってしまいます。どうかお許しを」を大沢の命乞いをしますが、許されませんでした。
秀吉は刀を解き、丸腰になって大沢に「申し訳ないが、あなたの命を助けることができません。このままお逃げください。疑うなら、私を一緒に連れて行ってもかまいません」と詫びました。大沢次郎左衛門は秀吉の厚意に礼を言い、逃げたと伝わっています。
この話が伝わり、秀吉の下で働きたいという者が増えたということですが、信長が部下であってもすぐに首をはねたと伝わっていることと比べ、対照的な描かれ方ですね。
戦国時代の面白い逸話その4 徳川家康と妖刀村正の関係とは?
「村正」とは伊勢・桑名(現在の三重県桑名市)の刀工がつくった刀のブランドです。
徳川家康はこの刀を忌み嫌ったといわれています。
その理由は自分や自分の身内を傷つけた刀がことごとく村正だったというもの。祖父・父ともに家臣に殺されていますが、いずれも村正の刀で殺されたこと。また、謀反の動きがあるとして自分の息子・信康に死罪を言い渡した際、切腹の介錯に使われた刀が村正だったこと。さらには、関ヶ原の戦いで功を上げた家臣の槍を見ているとき、家康は槍を持っていた者の不注意で指を傷つけてしまうのですが、その槍がまたしても村正だったこと…というわけで、家康は村正を嫌うようになったそうです。
「村正」の銘を持つ刀は戦国時代から江戸初期まで3代に渡ってつくられたとされていますが、4代目は「千子」と改称しています。徳川家が村正を嫌い、大名や旗本もそれにならったことが影響しているといわれています。こうした伝説がのちのちまで伝わり、幕末には討幕の意味を込めて志士たちが村正を所持していたようですね。
「村正」に関しては、東海地方に広く流通していた刀だったため、徳川家周辺でそれを持つものが多かったのは仕方ないのかもしれません。それに、じつは徳川家には家康所有の村正が尾張徳川家に伝えられています。家康の村正嫌いは世間の噂だったのかもしれません。家康所有の村正は現在、名古屋の徳川美術館に所蔵されています。
戦国時代の面白い逸話その5 完勝はダメ!? 武田信玄は勝ち方にこだわり
武田信玄は戦いの勝ち方にこだわっていたようです。周囲にいつも「戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」と語っていたそう。信玄いわく、「勝ち負け半々ぐらいで決着がつくのがいちばんよくて、完全勝利はいちばんダメ」とのことなのです。
ある人が信玄に理由を尋ねたところ、「勝ち負け半々ぐらいの結果なら、次はがんばろうという気持ちがおきる。7割方の勝利だと、ここまでできたんだから次も大丈夫だろうという油断が生まれる。完勝してしまうと、敵を侮ってしまう」と信玄は答えました。ライバルの上杉謙信は、この話を聞いて信玄を誉めたそうです。
これは勝ちに驕るなという戒めのようにも聞こえますし、ひとつの勝ち負けに執着せず、長いスパンでものごとを考えろという経営論のようにも聞こえます。生涯、負けたことがほとんどなかったといわれる信玄ですが、「負けない戦い」とは「五分で上」とする心得から来ているのでしょう。
この記事のまとめ
以上、戦国時代の面白い逸話をご紹介しました。
こうした面白いエピソード話の多くは、江戸時代の講談や幕末にまとめられた『名将言行録』などに出ています。真偽のほどはさておき、「この人ならこんなことをしそう」というかたちで、人々のあいだに語り継がれてきた逸話のかずかず。教科書だけではけっして見えてこない、武将の人間性が垣間見られるのではないでしょうか。