日本史を学ぶ上で、「鑑真」という僧侶の名前は必ずと言っていいほど聞くと思います。
鑑真というと、奈良時代の日本に「戒律」を伝え、唐招提寺というお寺を建てた人、という説明がよくされますよね。
また、中国から日本に渡る際に5回も失敗し、6度目でようやく渡航できたエピソードも有名です。

この鑑真の渡航に奔走したのが、この記事で紹介する普照(ふしょう)と栄叡(ようえい)という2人の僧侶でした。
普照と栄叡について、年表も使いながらご紹介します。

普照とはどんな人だったのか。先祖は渡来人だった?

まずは普照(ふしょう)がどんな人だったのかを見ていきましょう。

普照の産まれた年はわかっていませんが、母親は白猪与呂志(しらいの よろし)という人物の娘だと言われています。与呂志が属する白猪氏(しらいうじ)とは古代に朝鮮半島から日本に来た人々の末裔であり、一族には大陸との外交に携わった者が多いと言われています。普照は渡来人の末裔という事になりますね。

さて、普照は成長すると法相宗の僧侶となります。法相宗は「南都六宗」の1つに数えられる当時の奈良時代の仏教宗派で、主に興福寺や薬師寺を中心に仏教研究を行っていた事で知られています。普照も興福寺で暮らしていたようです。

733年、普照は遣唐使として唐(今の中国)に渡ります。渡航の目的は、戒律を授けられる僧侶(伝戒師)を日本に招く事にありました。
こうした戒律の必要性については以下の鑑真の記事でご紹介しているので、宜しければご覧になってみてください。

※参照:鑑真ってどんな人?年表や寺を小学生に解説!

唐に渡った普照は、洛陽で戒律を授けられ、まず自分が正式な僧侶となります。そして、日本に帰国するまで僧として学問を続けながら、戒律を授けられる僧侶を栄叡と共に探しました。
しかし僧侶はなかなか見つかりません。当時の唐は、自国民の出国を禁じていたため、国禁を犯して日本へ行こうと思う人はなかなかいなかったのです。

そのような中、普照はこれまで4万人の僧侶に受戒を行ってきた鑑真という僧侶の存在を知ります。鑑真の受戒は非常に厳しい事で知られており、彼から戒律を授けられた人を日本に招こうと考えました。
つまり、最初2人は鑑真本人ではなく、その弟子を招こうとしたのです。
しかし弟子たちが渡航を渋るため、鑑真本人が渡航を決意。普照も従い何度も渡航を行いますが上手くいきません。
渡航が失敗するのは自分が疫病神だからでは?」と考えた普照は、鑑真のもとを離れていた時期もありました。
この時、既に栄叡は亡くなっています。普照にとっては感極まるものがあった事でしょうね…!

752年、12回目の遣唐使が唐にやってきます。この時、鑑真は普照と共に船に乗り、6回目にしてようやく彼を日本に連れてくる事ができました。
帰国した後の普照は、東大寺や西大寺で暮らした後に亡くなったと言われてますが、没年はわかっていません。
ただ759年、人々の飢えを解消するため果物を植えるよう意見を述べた記憶が残されています。今でいえば、社会貢献事業に非常に熱心なお坊さん、という位置付けになるでしょうか。

栄叡とはどんな人?逮捕されても諦めない情熱とは

続いて、栄叡(ようえい)についてもご紹介します。

美濃国で生まれた(生年は分かっていません)栄叡は、普照と同じく法相宗の僧侶として興福寺で暮らしていました。
733年、普照と同じく遣唐使として唐に渡り、普照と共に僧侶となり勉強を続けながら日本に来てくれる僧侶を探します。
この時期の2人は「留学生」という身分であり、僧侶探しと勉強を並行して行う必要がありました。国を背負って唐に来ている事は、とてつもないプレッシャーだったのではと感じますね。

その後、栄叡は普照と共に鑑真と面会し、渡航の承諾を得ます。しかし本当の苦難はここからでした。
栄叡は1度目、3度目の渡航時に逮捕されています。3度目の逮捕後、栄叡は看守に逃がしてくれるよう懇願したため、これを哀れんだ看守が栄叡を死んだ事にして鑑真の許に逃した、というエピソードが残っています。
交渉上手だったのか、それとも懇願が情熱的だったのか…どちらなのか気になりますね。

そして5回目の渡航、鑑真一行は揚州(現在の江蘇省)から日本に渡航しようとしますが、運悪く海南島(現在の海南省)に到着してしまいます。1年ほど海南省に滞在した後、揚州を目指して旅立ちますが、端州(現在の広東省)の旅中、栄叡は長年の過労がたたったのか、この地で亡くなります。
栄叡の最後を看取ったのは普照でした。また鑑真も非常にショックを受けたとされ、彼自身も過労などで失明してしまうのです。

普照と栄叡の生涯を年表を使ってみてみよう!

そんな普照と栄叡の生涯について、年表を使ってまとめてみました。

・???年
普照が白猪与呂志の娘を母として産まれる。
栄叡が美濃国で産まれる。
その後、2人とも法相宗の僧として興福寺に住す。

733年
普照と栄叡、第10回遣唐使として唐に渡る。

734年
唐に到着。洛陽の大福先寺で具足戒を授けられる。

736年
二人の要請を受けた僧・道璿(どうせん)が来日。
道璿は天台宗に精通しており、孫弟子には日本における天台宗の開祖・最澄がいる。

742年
普照と栄叡、揚州の大明寺の住職を務めていた鑑真に対面。
来日を促し、承諾を得る。

743年
鑑真の1度目の渡航が行われるが失敗。
鑑真の弟子が役人に「普照と栄叡は海賊である」と密告した事が原因とされる。

744年
3度目の渡航が行われるが失敗。
栄叡は投獄されるが、病死を装って脱獄に成功する。

748年
栄叡、大明寺にいる鑑真を訪ね、5度目の渡航の承諾を得る。

749年
栄叡、端州(現在の広東省)の龍興寺で病気で亡くなる。
この頃、普照は鑑真のもとを離れる。

754年
第12回遣唐使が帰国。普照、鑑真を連れて日本に帰国する。
(6度目の渡航の成功)
帰国後の普照は、東大寺で暮らしたとされる。

759年
普照、都の街道に果樹を植えることを提案する。

・???年
普照、奈良西大寺の大鎮を務める。(没年は不明)

この記事のまとめ

法相宗を学び、日本に戒律を伝えることに奔走した普照と栄叡
長く苦楽を共にし、同じ目標に向かっていた二人はとても仲が深く、栄叡が亡くなる際には普照がその最後を看取り、普照は栄叡の死を嘆き悲しみ、我を忘れて泣いたといわれています。
世間ではどうしても有名な鑑真にばかり目が向けられますが、鑑真の招聘の裏には、「普照」と「栄叡」、2人の熱い絆と必死の働きがあったのです。