鎌倉時代には宮騒動宝治合戦霜月騒動という出来事が発生しています。
いずれも北条家、特に得宗家の権力強化がテーマとなっている点では共通しているのですが、それぞれがどのような事件だったのか、混乱してしまいますよね。

今回は、宮騒動、宝治合戦、霜月騒動の違いについてわかりやすくまとめてみました。

北条時頼の権力強化きっかけとなった「宮騒動」についてわかりやすく解説。

宮騒動は1246年に起きた事件です。
4代目将軍・藤原頼経が鎌倉から追放され、北条時頼ならび北条家の嫡流である「得宗家」の力が強まる事となります。

鎌倉幕府4代将軍となった藤原頼経

1219年、源実朝が公暁に討たれ、源氏の正統が絶えてしまいます。そのため鎌倉幕府は京都から将軍を迎える事となり、藤原氏の一族で摂政や関白、太政大臣を多く輩出した九条家から、わずか2歳の藤原頼経が将軍として迎え入れられました。

※参照::摂政、関白、太閤、太政大臣、征夷大将軍の違いをわかりやすく解説!

頼経の曾祖母は初代将軍・源頼朝の妹であり、妻は2代将軍・頼家の娘である頼経は、将軍となるには相応しい家柄であったと言えます。

将軍就任当初2歳だった頼経ですが、成長するに従い、北条執権政治に不満を持つ御家人たちと共に幕府政治の変革を考えるようになります。一方で北条氏の中でも、得宗家とは別の流れであった北条朝時を祖とする名越家は、次第に権力の集中を図る北条得宗家に対して不満を募らせていました。

こうした中、4代執権であった北条経時はこうした動きに対して先手を打ち、1244年に頼経を将軍から廃してしまいます。後任には頼経の息子である藤原頼嗣が5代将軍に就任しました。

「大殿」頼経と名超兄弟の運命は?

しかし、将軍職を譲らされた頼経は京に去る事はなく、従来通り鎌倉に居を構え周囲から「大殿」と呼ばれ、反得宗家の中心人物の一人として幕府から警戒されていました。

1246年には北条経時が世を去り、弟の北条時頼が5代目の執権となります。

時を同じくして宮騒動は起きます。経時の死をチャンスと考えた名越光時は、弟の時幸や藤原頼経と共に、執権職にあった時頼を廃そうと考えます。しかし、時頼側は名越光時の不穏な動きを掴み、合戦の準備をした上で名越兄弟に圧力をかけます。

名越光時は降伏・出家しますが、弟の時幸は強硬派だった事が咎められ自害させられたと言われています。藤原頼経の側近である御家人も排斥され、鎌倉に大殿として居を構えていた藤原頼経には京都に追い返される処置が行われました。

「宝治合戦」についてわかりやすく解説。三浦一族の生き残りがあの戦国大名に?

宝治合戦は1247年に勃発した戦いです。
北条氏(と安達氏)が三浦泰村(三浦氏)を滅ぼし、得宗家の政治力が確立するきっかけとなりました。

藤原頼経と三浦一族の関係ついて

宮騒動により、鎌倉を去る事となった藤原頼経。
この時、京に同行したのが三浦光村でした。
光村はかねてより反得宗家の立場をとっていたため、幕府から警戒されている人物でもありました。

しかし時頼は、三浦一族との全面衝突を避けたい思惑に加え、三浦家の当主でもある三浦泰村が時頼と友好関係を保ちたいという姿勢もあったため、当初は三浦光村の態度を不問に付していました。
当時の三浦氏の当主である泰村自身も頼経と親しい関係を築いており、その力は北条家を上回ったとも言われています。

※参照:三浦義村の父親や子供の泰村について。子孫はいるの?

泰村は、頼経を京に護送する役目を三浦光村に任せます。光村は鎌倉に戻る際、藤原頼経に対して涙を流し、「今一度鎌倉にお迎えします」と別れを惜しんだとそうです。

この光村の対応は時を経て北条時頼にも伝わる事となります。この時期、鎌倉には天変地異が次々に起き、鎌倉の街に不穏な雰囲気がある中で北条時頼と外戚関係を持つ、有力御家人であった安達景盛が25年ぶりに鎌倉に帰還しました。

安達景盛の危機感が宝治合戦を引き起こす

この安達家と三浦家は、共に鎌倉13人衆の構成員でもあり幕府創業期からの重臣の家柄です。共にどちらがより幕府内で権勢があるかを争う間柄でもありました。
景盛は、安達家が幕府内の序列で三浦家の風下に甘んじていたわが子たちに強い危機感をいだいていました。安達景盛は、北条時頼が三浦泰村と友好関係を構築し和平を保とうとする事には強い懸念を感じていました。

もしもこのまま三浦氏が温存されれば、幕府創業期からの大豪族である三浦氏の存在感はさらに増し、安達家はやがて幕府内での勢力がなくなる可能性があると考え、三浦氏討伐を時頼に説きます。
景盛は三浦氏を挑発するため鶴岡八幡宮に札を建てたり、三浦泰村邸に不吉な落書きをするなど、三浦氏がいかにも謀反を計画しているがごとく数々の工作をしたと伝えられています。

北条時頼としても、三浦義村以来、数々の計略に関わり幕府内で最大勢力を有する三浦氏を取り除きたい思惑があり、当主の三浦泰村とは距離を置く、三浦光村のような急進派の存在も無視できなかったため、最終的には、安達景盛の強い意志に押されて1247年に宝治合戦を起こし三浦一族を滅ぼす事となりました。

この時、鎌倉13人衆の構成員である大江広元の四男で、泰村の妹を妻としていた毛利季光も子供たちと共に自害しています。ただ季光の四男である経光は宝治合戦には参加しておらず、この家系から戦国大名として有名な毛利元就が輩出される事となりました。

※参照:大江広元の子孫について解説。毛利元就とはどう繋がってるの?

「霜月騒動」についてわかりやすく解説。得宗家の権勢はどうなったのか?

最後にご紹介するのが、1285年に勃発した霜月騒動です。
有力御家人だった安達泰盛が滅ぼされ、得宗家の家来である「御内人」の力が強まりました。

御家人代表・安達泰盛の改革に巻き起こった反感

8代執権である北条時宗亡き後、幼くして執権となった北条貞時は権力を充分掌握していなかったため、有力御家人であり貞時の外戚でもあった安達泰盛の権力が次第に拡大していきます。
なお、この泰盛は宝治合戦を引き起こした景盛の孫でもあります。

※参照:北条時宗の家族について。兄の北条時輔とは?妻や子供はどんな人?

当時の幕府は、元寇後の恩賞を巡り難問山積で、泰盛は御家人の権益保護を図るために改革を行っていきます。

一方、これに対して北条得宗家の家臣であった「御内人」と呼ばれる人たちは、得宗家の権力を背景に自分たちの所領を全国に拡大させていきます。
安達泰盛は、こうした御内人の支配していた領地を返還させ御家人への分配を実施するなど、元寇後の困窮する御家人の生活の援助をする政策を実施したため、従来からの権利が奪われていく御内人は極めて安達泰盛の方針に不満を持つようになります。

「御内人」平頼綱の権勢と没落

御内人の筆頭格であった内管領の平頼綱は、自分たちの権益を守りこれ以上、安達泰盛の勢力が拡大しないように、1285年に北条貞時を奉じて、安達泰盛並びにその一族を滅ぼしてしまいます。
この出来事は「霜月騒動」と呼ばれており、安達一族500名以上が自害したと言われています。この事件は日本全国にも波及しており、泰盛派の御家人が少なからず没落しています。

霜月騒動の結果、御家人の勢力はさらになくなり、得宗家の「御内人」である平頼綱の勢力は、ますます拡大していく事となりました。しかし、頼綱は力を付けすぎたため北条貞時に警戒されてしまい、1293年に貞時によって滅ぼされてしまいます。
その後、貞時は1297年に永仁の徳政令を発布するなど政治力を発揮しますが上手くいかず、やがて酒浸りとなり得宗家は将軍と同じく形式的な存在へと変遷していきます。

まとめ

宮騒動、宝治合戦、霜月騒動の違いについてわかりやすく解説しました。
まとめると、以下のようになります。

宮騒動(1246年)
執権北条時頼が、前将軍藤原頼経を京都に追放した事件。
同時に一族の名越光時の反乱も防止しており、得宗家が力を付けるきっかけとなった。

宝治合戦(1247年)
執権北条時頼と安達氏が、三浦氏を滅ぼした戦い。
これを機に、北条時頼と得宗家の専制政治が確立した、

霜月騒動(1285年)
執権北条貞時の家臣(御内人)平頼綱が、有力御家人安達泰盛を滅ぼした事件。
この事件を機に、得宗家の家臣「御内人」の力が強くなっつた。

いずれの事件も、得宗家の隆盛を表したものになりますね。