家康が天下統一を成し遂げる際、その傍らにいたのは「三河武士」と言われる人々でした。
彼らはアクが強く、「めんどくさい」と言われる事も度々ですが、忠誠心に暑い、勇猛果敢で強い人々という評価も残されています。
今回は、こうした三河武士の真相に迫ってみました!
三河武士に対する評価とは。「忠義に厚い」は本当?
三河武士に対する評価について調べますと、以下の評価が言われることが多いようです。
・主君に対して忠義を尽くし、時には死も恐れない。
・戦闘民族のように戦に明け暮れた。
・言動が何かとめんどくさい。主君相手でも遠慮しない。
特に「忠義」についての言及が多い印象で、大名例としては家康の人質時代に岡崎城を預かり、主君の帰還に備えて倹約を心がけ蓄財を行った鳥居忠吉や、三方ヶ原の戦いにおいて家康の身代わりとして討死した夏目吉信や鈴木久三郎、関ヶ原の戦いの前に伏見城の戦いで討死した鳥居元忠の存在が「忠義に厚い三河武士」のイメージを形成したと言われています。
しかし、天文4年(1535年)の守山崩れでは、家臣(阿部正豊)が主君(松平清康)を殺害していたり、永禄6年(1563年)から約半年行われた三河一向一揆では反家康勢力と松平家臣の分裂がおきる等、「忠義に厚い三河武士」のイメージにそぐわない事件が起きている側面もありますね。
ただ、守山崩れに関しては清康を殺害した阿部正豊の「早とちり」も否定できません。正豊は父親の阿部定吉が松平清康に殺されたと勘違いしていたと言われています。三河武士がいくら忠義に厚いとはいえ、父親が殺られたと思ったなら、たとえ主君でも「許さんぞ!」という気持ちが芽生えるのもしょうがないんじゃないでしょうか。
三河一向一揆に関しては、「一向宗の信仰心」が「主君の忠義」を上回ったとも言えますね。一向宗を取るか、主君(徳川家康)を取るか板挟みに悩んでいた人達もたくさんいたみたいですからね…。
主君に対しとても忠誠心がある三河武士ですが、守山崩れや三河一向一揆をみてみると、「父親」や「宗教」など、主君より大事なものがあり、それにより現代に語り継がれるほどの事件になってしまうこともあるということですね。
三河武士の強さとは? 尾張武士との比較も解説
「戦闘民族」とまで称された、三河武士の強さについて詳しく見ていきましょう。
三河武士の強さを語る際、よく述べられるのが隣国の尾張国との比較です。
「三河兵1人は尾張兵3人に匹敵する」という言葉があるほど、三河武士の強さ(と尾張武士の弱さ)は江戸時代から言われてきました。
この2国の特徴を整理すると、以下のようになります。
三河国
・農業が盛んな反面、生産高は決して高くはなかった。
・小規模領主が多く、隣国(今川、織田)に対抗するため結束が求められた。
尾張国
・商業が盛んで、貨幣経済も浸透していた。
・合理的で計算高い人が多かった。
こうした点について踏まえると、三河武士の強さの秘訣はいわゆるハングリー精神だったのではないかと感じます。
三河は決して豊かな地域ではなく、しかも今川や織田の脅威に晒されていた地域でした。
この地域には小規模な領主も多く、今川や織田には独力では対抗できない。
そのため、松平氏を盟主として東西の大勢力との間を上手く渡り歩く必要があった。
こうした苦渋、忍耐の日々が三河武士のハングリー精神を醸成し、結果として彼らのトップの家康が天下人となった…という流れが考えられるのかなと。
※参照:徳川家と松平家の関係や家紋の違いについて。改名の理由は?
また、三河武士のトップである家康が天下人になった事から、「天下人を支えた三河武士が強いのは当たり前」という価値観に繋がったり、そもそも徳川家譜代の家臣を後世の人々が賞賛した事が、「三河武士=強い」というイメージを作っていった考えも出来ると思います。
三河武士はめんどくさい? 代表的人物とそのエピソード
また、三河武士について「めんどくさい」という評価もあります。
その背景ですが、上記で説明した三河武士には小規模領主が多く、隣国と戦うために結束が求められたという点が関わってくるようです。
戦国期の三河武士にとって、松平氏はあくまで担ぎ上げた神輿であり、君臣としての意識はそこまで強くなかったようです。
そのため軍議では遠慮せずに意見したり、家康に対しても空気を読まずに物を言うなども珍しくなかったとか。
例えば、三方ヶ原の戦いで家康が敗北して脱糞して浜松城に帰還した際、大久保忠世は「殿が糞を漏らして逃げ帰ってきたぞ」と発言し、家康が「これは焼き味噌じゃ!」と返した話が存在します。
この話は真偽の程は定かではないのですが、家康と三河武士のコミュニケーションがどのようなものかを伺わせる、面白いエピソードではあると感じます。
天下人に歯向かって蟄居処分に…本多作左衛門重次の逸話
「めんどくさい三河武士」の代表例といえば、本多作左衛門重次が挙げられます。
家康が秀吉に臣従するため上洛した際、作左衛門は秀吉が人質として送り込んだ母・大政所の世話を家康から任されます。
この時、作左衛門は大政所が滞在している家の周囲に薪を置いて、「殿に万が一の事があればこの薪を焼いて…」という行動を取った事が知られています。
人質の定めといえばそれまでですが、家康としては秀吉の心情を刺激するのは避けたかったでしょう。結果として何も起こりませんでしたが、その後も彦左衛門は人質として秀吉の元へ送られていた家康の次男・結城秀康を「母親の看病が必要だから」と嘘をついて呼び戻したり、小田原征伐時に岡崎城での秀吉との対面をすっぽかす等して秀吉の怒りを買っています。
こうした積み重ねが影響したのか、家康の関東移封後、作左衛門は秀吉の命により蟄居を命じられています。
※参照:家康が秀吉に臣従した訳は?その関係や遺された遺言について
他には、武田家を滅ぼした際、武田家で釜茹で刑に用いられていた大釜を家康が発見し、浜松に持ち帰るように命令するが、それをみた作左衛門は独断で釜を破壊してしまいます。作左衛門曰く「こんな釜が必要とされる世ではだめだ!!」との理由でしたが、家康は怒るどころか重次に謝罪・感謝した…という逸話も残されています。
作左衛門なりの道理はあるのでしょうが、行動が大げさ過ぎる点もしますね。
「めんどくさい(だけど愛らしさもある)」奴だな…と、家康は思っていたのかも。
輿がダメなら「たらい」で登場!大久保彦左衛門忠教のエピソード
「めんどくさい三河武士」の代表例としてもう一人挙げたいのが、「天下の御意見番」と言われた大久保彦左衛門忠教(ただたか)です。
彦左衛門は家康の糞のところで頂上した大久保忠世の弟です。これとは別に忠佐(ただすけ)という兄がいたのですが、この忠佐は沼津藩主だったのですが、1613年に後継者不在という状態で亡くなってしまいます。
そのため、幕府は忠佐の弟である彦左衛門に跡を継がせようとしますが、彦左衛門は「沼津藩は兄上の功績によるもので、自分は受け取れない」とこれを辞退。
当時の忠教の所領は3000石であり、受け取れば大名に出世できるのですが彼なりの筋を通したのでしょう。
江戸時代初期、所領が1万石以上ある大名は輿に乗っての登城が認められていましたが、それ以下の者は認められていませんでした。
これに憤った彦左衛門は、なんと「たらい」に乗って登城したと言われています…。
以下はその時を表した絵画です。左下のおじいちゃんが彦左衛門ですね。
幕府からすれば「めんどくさい奴だな…」以外の何者でもないでしょうが、こうした彦左衛門の行動は当時冷遇されていた「武功派」の武士たちや浪人、庶民から大きな支持を集めていたと言われています。
他には大阪夏の陣での逸話も有名です。
敵方の真田幸村が家康の本陣を急襲し、家康本陣の旗は倒され、旗本衆も逃げ惑い、家康自身も危機一髪になったことがありました。後日、皆が家康の旗が倒れていたと話しますが、大久保彦左衛門だけが「7本の旗が立っていた」と言い張ります。それを聞いた家康に呼び出され、家康は「皆が旗は立ってないというが…」というも、彦左衛門は「いいえ旗は立っていました」と答えます。「自分も見てないぞ」と家康。「いいえ立ってました。」と彦左衛門。
家康が怒り「この強情もの!」と脇差に手をかけても、「旗は立っていました」。他の家来が間に入ってその場はおさまりましたが、彦左衛門は強情者として名が広がりました。
実は彦左衛門自身、旗が倒れていたのは知っていましたしかし、旗が倒れた(逃げた)となれば徳川家の不名誉として歴史に残ります。たとえ自ら首をはねられようとも、徳川家の名誉を守ってこそ譜代の家臣!との思いをもっていたんですね。
まとめ
三河武士への評価やその強さ、そして「めんどくさい」と言われる理由や代表的な人物についてご紹介しました。
江戸幕府成立後、鳥居元忠や大久保彦左衛門といった「武功派」と言われる人々は政権の中枢から遠ざけられてしまい、代わりに本多正信・正純親子のような「文治派」の存在感が高まっていきます。
こうした風潮を苦々しく思う人々の想い、そして家康の天下統一に多大な功績があった人々を持ち上げる幕府側の思惑が「三河武士」という”ブランド”を形作ったのかな?と思ったりもしました。